弁護士由井照彦のブログ

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保守やリベラルって何のこと?−憲法の規定から整理すると

総選挙公示を控えて政党再編が喧しく、「穏健な保守」「リベラル」等という思想用語のようなものが飛び交っています。しかし、そもそも「保守とは何か?」「リベラルとは何か?」について明確に語られることが少なく、議論が非常にわかりにくくなっています。実際のところ、希望の党が言う「保守」といわゆる保守思想との間には相違点が多く、また立憲民主党共産党が言う「リベラル」といわゆるリベラリズムの間にもかなりの相違点がありますので、議論のわかりにくさ100倍といった様相です。

そこで、議論の整理のために憲法、特に(現行の)日本国憲法の諸規定に関するオーソドックスな説明をツールに、上記のような思想的混乱を自分なりに整理することは、自己の政治的立場や自分の望む政治更には投票先の選定にあたって非常に有益だと思われます。

日本国憲法が定める権利(いわゆる人権)は「◯◯権」という名称がついているものの、そのほとんどは国民が権利を「積極的に行使する」ということを想定していません。 たとえば、表現の自由を定める憲法21条1項は、

憲法21条1項「集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。」

と定めていますが、国民が何か表現行為(例えば反安保法制集会を開いたり、写真集を出版したりする等)を行うにあたっていちいち「表現の自由を行使する!」と誰かに言うことを求めているわけではありません。 表現の自由は、例えば国家が反安保法制集会を交通の邪魔だと言って取り締まったり、とある写真集を「わいせつだ」と言って撮影者を逮捕したりする等、

「国家(公権力)が国民の表現行為を妨害しようとする場面」

で、国家は集会を取り締まるな、国家は写真集の撮影者を釈放しろ(無罪判決にしろ)というような、

「国家は何もするな、国民の自由にさせておけ」

という形で力を発揮します。

このことは経済の場面でも基本は同じであり、

憲法22条1項「何人も、公共の福祉に反しない限り、居住、移転及び職業選択の自由を有する。」

との定めは、例えば薬局開設について国家が合理的理由も無いのに、他局から◯メートル以上離れていなければならない等と定めて、新規薬局開設を禁止すると行った場面で

「国家は、国民が薬局を新規開設するのを邪魔するな。国民の自由にさせておけ。」

という形で力を発揮します。

このように「国家は国民の邪魔をするな」という形で力を発揮する権利を消極的自由権と言います。我が国でも諸外国でも憲法が定める権利の原則は消極的自由権が原則です。

消極的自由権憲法上の権利の原則だということは、国民の自由な活動のための基盤を整備したり、国民同士の権利行使の調整をすることが国家の役割である、との思想を憲法は土台としていることを意味します。これは言い換えると「国民の自由の保障のために国家の役割を限定する」という考え方です。

これは経済思想的には自由主義経済、特に自由主義経済の中でも市場を通じた利益調整(いわゆる「神の見えざる手」)に重きを置く考え方を土台にしています。 また、かつての小泉政権での「民間にできることは民間に!規制緩和!」というのはこの消極的自由の尊重という一面を有していました(それだけではないのはもちろんです)。

しかし、上記のような消極的自由権だけでは国家はうまくいきません。

つまり、国民の自由な活動を保障するだけでは、競争に負けて困窮していくしか無い者(典型的には老人や障がい者)を不可避的に生み出すのが現実です。また、経済政策としても市場に全てを任せるだけでは、経済の変動(凄まじいインフレ等)により、国家経済の破綻すらあり得ることも歴史が証明しています。

これは言い換えれば、「消極的自由権だけでは、国民は『自由』を享受できない」もっと言うと「消極的自由権だけでは『飢える自由』しかない」という現実があることを意味します。

そのため、憲法は消極的自由以外の権利を定めます。典型的な規定が憲法25条であり、

憲法25条「①すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。②国は、すべての生活部面について、社会福祉社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない。」

  と定めます。つまり、国民が真の自由を享受するために「健康で文化的な最低限度の生活」を保障し、そのために国家が積極的な政策を遂行すべきことを国家の義務としている訳です。 これは言い換えると「国民の実質的な自由の保障のために国家の役割を拡大する」という考え方です。 これら国民の福祉のために国家に積極的な役割を期待する憲法25条等の思想を「福祉国家」思想と言ったりします。

国民の自由を保障する→国家の役割を限定する

国民の実質的な自由を保障する→国家の役割を拡大する

 という2つの方向性は完全な形では両立しない、矛盾した原則です。

憲法がこの矛盾する2つの原則を共に定めているということは、この2つの原則間の調整をうまくつけながら、なるべく相互の矛盾を少なくするように国家を運営しなければならないことを示しています。この調整は抽象的に語られるべき事柄ではなく、その時その時の情勢、科学的な未来判断、国民世論等を勘案しながら、機動的に判断されなければならないことはもちろんです。

したがって、政治を担う者として、この2つの矛盾する原則について、ⅰ)どちらをより重視するのか、ⅱ)どのような調整方法が原則なのか等のスタンスの差が基本的な政治的な立場の差ということになります。 その一般的な傾向ないし「モデル論」の呼称が「本来の」「保守」や「リベラリズム」ということになります(ついでですが本来の保守思想とリベラリズムは必ずしも相反する考え方ではありません)。

今回の選挙でも、混乱する「保守」「リベラル」というキャッチフレーズではなく、上記2つの原則の調整の仕方に関心を持って各党の政治的立場を自分で整理してみるとよいのではないかと思います。  

headlines.yahoo.co.jp

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