弁護士由井照彦のブログ

法律の視点からの社会・事件やリーガルリサーチについて

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「殺す」と「死なせてしまう」の差−法律は実は甘くない

記事のような悪質な過失致死事件が報道されると「人を死なせたのに過失致死程度だなんて」「殺したも同じだ」というような人が一定数います。そして我が国の刑法(特別法を含みます)やその運用に携わる裁判官・検察官・弁護士を「甘い」と評価する人もそれなりにいます。

しかし、少なくとも我が国の刑法は実は甘くありません。犯罪という社会現象を冷徹に規律しています。

刑法の機能は前にも少し書いたとおり、①因果応報(目には目を)、②一般予防(一罰百戒)、③特別予防(犯人の更生)の3つです。

ここで①に着目すると、目には目を歯には歯をなので、「社会的非難が強い類型の行為には重い刑罰を課す」ということになります。②に着目しても社会的非難が強い類型の行為を社会的になくすために重罰を科すということになります。更に③についても社会的に非難強い類型の行為をした者は長く拘禁等しないと更生しないので、より重く罰するということになります。

つまり、刑法が禁圧し、重罰を科すのは社会的非難が強い行為ということになります。

ここで重要なのは、当然ですが社会的非難の強さには強弱があり、言い換えると(犯罪とされる)行為の類型同士をそれぞれ比較して「より社会的非難が強い」「より弱い」という判断をするわけです。

そして、社会的非難の構成要素はⅰ)客観的に判断できるもの(犯罪の結果や関わった人数など)とⅱ)主観的に判断するものがあります。

ⅱ)の主観による社会的非難の強さを計る基本的な視点が「故意」と「過失」です。

犯罪結果が「人の死」である類型、それも自動車が絡むものに着目すると、

「人を死なせようと思って又は人が死ぬとはっきりわかっているのにあえて車を人に衝突させた」というのが「故意」であり殺人罪が成立します。

次に

「人を死なせようと思っておらず、人が死ぬとは認識していなかったが、不注意で人に車を衝突させてしまった」というのが「過失」であり、通常過失運転致死罪が成立します。

この2つの類型を「比較」して、「どちらにより重罰を科すべきか」を考えると、

①応報の観点からは、人をわざと殺すのと、不注意で死なせるのとでは、結果は同じでも行為者の悪質性は圧倒的に故意の方が重いと考えられます。つまり、故意(殺人)をより重く罰すべきです。

②一罰百戒の観点からは、人を殺そうという不埒な輩こそ刑罰で威嚇しなければなりませんし、「不注意で死なせても同じ刑なら、人を殺しても大したことはない」という悪魔的な考えを予防するためにも故意により重罰を科さなければなりません。

③犯人の更生の観点からも、不注意で人を死なせた人より、殺そうと思った者の方が長く拘禁しないと更生させられません。

つまり、故意の方が過失より重く罰することが、刑法の機能や目的をより果たし得ることになります。そのため、殺人罪と過失運転致死罪とでは、

刑法199条「人を殺した者は、死刑又は無期若しくは五年以上の懲役に処する。」

自動車運転処罰法5条「自動車の運転上必要な注意を怠り、よって人を死傷させた者は、七年以下の懲役若しくは禁錮又は百万円以下の罰金に処する…」

のように、法定刑に差がつけられているのです。これは過失で人を死なせてしまった人に「甘い」のではなく、「殺人と過失運転致死ではどちらをより禁圧し、重罰を科すべきか」との「比較」を行うという非常に冷徹な思考の結晶と言えます。

更に、上記2罪の法定刑をよく見ると、更に冷徹な思考がなされていることがわかります。

つまり、殺人は刑の下限が懲役5年であり、過失運転致死は上限が7年です。言い換えると、つまり、事案によっては過失運転致死罪の方が殺人より重く罰せられる場合があるということです。

これは刑法が主観により「より重く罰すべきはどちらか」という思考に加えて、「過失であっても相当に悪質性が高い場合がある」という冷徹な現状認識をしていることを表しています。

刑法は「重いor軽い」という単純な思考ではなく、上記のように「より禁圧すべきはどちらか」という思考や「相当悪質な過失がある」という非常に冷徹な思考がなされて、行為の類型と罰の重さを規定しています。

この冷徹な思考を少し垣間見ると、新たな類型の犯罪に対する刑罰の重さに対する自分の思考を整理するのに役立つと思われます。

headlines.yahoo.co.jp

 

 

 

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