弁護士由井照彦のブログ

法律の視点からの社会・事件やリーガルリサーチについて

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心の中をどう覗く?−故意は周りから

昨日の記事について、「一般人は殺人で起訴できるかも知れない」と思っているという鋭いご指摘を受けました。そこで、刑法が強い社会的非難が向けられ、重罰を科すべきと規律する「故意」についての判断過程を少し説明しようと思います。

昨日説明したとおり、殺人の故意とは「殺そうと思って行動する」ということです。「思って」と書いたことからわかるとおり、「故意」とは結局のところ人の心の中の問題です。

心の中を直接覗くことはできません。仮に容疑者が「殺そうと思ってました」と自白しても、容疑者が本当にそう思ったかどうかは別途問題になりますので、自白もやはり心の中を直接覗く手段にはなり得ません。そのため「故意」を認定する(検察官にとっては立証する)には、周辺の事実(間接事実と言います)から認定していくしかありません。

つまり、殺人の故意は「①人が死ぬ可能性が高い行為を、②死ぬ可能性が高いとわかって行う意思があった」と『普通』考えられるだけの周辺事実があるか?という判断プロセスで判断するしかありません。これは目に見えない「心」を問題にする以上、しょうがないとしかいいようがありません。

ここで『普通』(経験則といいます)そのように考えられる、というのがポイントです。

本件について問題になるのは②「死ぬ可能性が高いとわかって」の部分です。

ここで、「高速道路で停車させれば、『普通』追突事故が起こって死ぬ可能性が高いのはわかりきってるじゃないか!」という感想が出るのは当然ですし、実際そう言える場合が多いとも思われます。ただ、本件ではその『普通』を大きく疑わせる事情があります。

「容疑者自身も停車し、しかも外に出て被害者の車のすぐ横に立っていた」という事情です。

ここで『普通』という話になります。『普通』人は死にたくありません。殺人を犯そうと思っている人間も『普通』自分は死にたくないと思っています。「死なばもろとも」という殺人=無理心中も存在しますが、それは『普通』家族間、恋人間等で起こるのであり、本件のように初めてあった者が相手を「死なばもろとも」「自分も死んでいいから、相手を殺したい」とは『普通』思いません。

本件の容疑者に上記のような『普通』に当てはまらない特殊な事情があれば別ですが、そうでない限り本件でも容疑者自身は「自分は死にたくない」と思っていると考えるのが『普通』ということになります。

これは言い換えれば、本件での殺人の「故意」とは容疑者が「自分も死んでいいから、被害者を殺したい」という意思、つまり無理心中の意思ということです。

本件はまだ捜査中の事案ですので真実はわかりませんが、報道にあるだけの事情からは本件の容疑者が被害者と無理心中しようとしていたと『普通』考えることは困難です。

つまり、『普通』に考えれば、容疑者は車が突っ込んできて、被害者と自分が死ぬとは思っていなかった=死ぬとわかっていなかった、ということになります。

ということは、本件の容疑者の心=内心=主観態様は故意ではなく過失だった、ということになります。そのため、本件の容疑者は殺人罪ではなく、過失を前提とする過失運転致死罪で逮捕されていることになります。

前回「法律は実は甘くない」と説明しましたが、本件でも殺人罪が成立しないことは本件の容疑者に対して甘いことを意味しません。もっと非難の度合いが強い「故意」つまり殺人を「より」重く罰するために故意と過失で法定刑に差がつけられていると言えます。

「ひどい」と思う事件があると「重く罰せよ!」という気持ちがわき起こるのは当然です。しかし、刑法はこのわき起こる感情とは別に、やや距離を取って「より重く罰すべき犯罪がある」という現実を冷徹に考慮し、より重い犯罪を抑止するという非常に現実的な判断をしながら各種の犯罪と法定刑の高低を定めていることになります。

なお、過失であることを前提に危険運転致死罪等もっと法定刑の重い罪名で起訴できないか?というのは別途問題になりますが、それはまたの機会に。

 

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