弁護士由井照彦のブログ

法律の視点からの社会・事件やリーガルリサーチについて

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法律の「趣旨」の考え方−ゲス極川谷氏を題材に

彼の恋愛スタイルはある意味一貫しているように見えますが、それはともかく、今回の件で「法的に悪いのは飲酒した未成年者か?飲ませた成年者か?」を考えることは、私達法律家がいつも気にする「法律の趣旨」を説明するのによい題材です。
「法律の趣旨」とは、その法律の目的、目指すべき社会等のことであり、法律全体の趣旨が個々の条文の趣旨に落とし込まれ、条文文言の解釈や警察・行政の運用の指針となります。
最近できた(又は大きな改正があった)法律では、1条に当該法律の趣旨・目的が書いてあることも多くなってきていますが、それが無いことも多く、裁判所や裁判所にアピールする私達法律家が自分自身で「法律の趣旨」を考えざるを得ないこともかなりあります。
その際には、立法時の国会審議録等を参考にすることもあるのですが、基本はやはり「条文の構造」「条文の文言」ということになります。
未成年者の飲酒については未成年者飲酒禁止法が定めており、
未成年者飲酒禁止法第1条「①満二十年に至らざる者は酒類を飲用することを得ず
②未成年者に対して親権を行う者もしくは親権者に代りて之を監督する者未成年者の飲酒を知りたるときは之を制止すべし
③ 営業者にして其の業態上酒類を販売又は供与する者は満二十年に至らざる者の飲用に供することを知りて酒類を販売又は供与することを得ず」
1項で未成年者「自身」の飲酒を禁止し、2項で親や監督者に対して、未成年者の飲酒を制止する義務を課し、3項で酒屋さん等に未成年者への酒の販売を禁止していることはわかりますが、未成年者の飲酒を法で禁止する趣旨は書いてありません。
同法の目的について考えるヒントは、上記の禁止・義務違反への対応にあります。
まず、未成年者自身については、
同法2条「満二十年に至らざる者が其の飲用に供する目的を以て所有又は所持する酒類及其の器具は行政の処分を以て之を没収し又は廃棄其の他の必要なる処置を為さしむることを得」
とされており、要するに酒等を没収してしまうことが定められています。逆に言えば、それ以外の刑罰等は定められていないことがポイントです。
これに対し、親等の監視者については
同法3条「②第一条第二項の規定に違反したる者は科料に処す」
と定められています。科料とは、1万円未満の罰金のことです。つまり、軽いながらも刑罰が定められています。
更に、未成年者に酒等を売った酒屋さん等については、

同条「①第一条第三項の規定に違反したる者は五十万円以下の罰金に処す」

と定められています。親等よりはるかに重い罰金が定められていることになります。
以上をまとめると、未成年者飲酒禁止法は、ⅰ)飲酒した未成年者に対しては酒等を没収するが刑罰は科さず、ⅱ)親等が監視・制止を怠ったら軽い刑罰を科し、ⅲ)未成年者に酒を売った者に最も重い刑罰を科していることになります。 
上記のことから、未成年者飲酒法の趣旨を考えていくと、まず未成年者を罰することは目的となっておらず、親等の監視義務を課し、酒販売者に未成年者への販売を禁止することで「未成年者を酒から遠ざける」ことが、主な目的・趣旨であると考えられます。つまり、未成年者は同法で「保護」されている存在です。
次に、親等は一般的に未成年者に配慮・保護する義務があり、その保護義務の中に飲酒を制止する義務が含まれることを、未成年者禁止法は確認し、その違反には軽いながらも刑罰をもって臨んでいると、考えられます。
最後に、酒の販売業者が酒を未成年者に売った場合は、未成年者に酒を直接的に「近づけている」のであり、法の趣旨である「未成年者を酒から遠ざける」ことに思い切り反するので、最も重く罰せられる、と考えることができます。
上記のような条文構造や条文の文言を手がかりとしつつ、更に国会審議録等も参考にして、「法律の趣旨」を考えて、法律の具体的適用や解決を図るのが私達法律家の仕事の1つです。 
 
ちなみに、今回の件ではゲス極川谷氏が「親権を行う者もしくは親権者に代りて之を監督する者」にあたることは無いように思われ、彼自身が未成年者飲酒禁止法で罰せられることはないと考えられます。
他方で、恋人に酒を提供したバーのバーテンダー等は、恋人が未成年者であると知っていれば(故意があれば)、同法違反に問われる可能性もあると考えられます。

租税回避の何が問題か?

パナマ文書の発見により、租税回避地タックス・ヘイブン)を利用した、不当な税金逃れが問題となっています。しかしそもそも、「租税回避」と「脱税」はどう違うのか?脱税ではないのに何が問題なのか?等、基本的事項ついては意外と知られていません。

まず、税法の適用や運用にあたって、税法の2大原則とすら言えるほどに超重要な原則があります。それが、①租税法律主義と②租税公平主義です。

租税法律主義とは、憲法に定めがあり

憲法84条「あらたに租税を課し、又は現行の租税を変更するには、法律又は法律の定める条件によることを必要とする。」

と定められています。
要するに、国民から税金を徴収するには、国会で、ⅰ)どのような財産・収入について、ⅱ)具体的な額・税率で、ⅲ)どのような手続きで徴収するか等を明確に決めることが求められています。
国家が国民の大事な財産・収入を国家権力を使って、その一部を支払わせるのですから、国会ではっきり決めておきましょう、ということです。

租税公平主義も平等原則という形で憲法に定めがあり、

憲法14条「すべて国民は、法の下に平等であつて、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない。(2項以下略)」

と定められています。
ただ、租税に引きなおす場合には、9/26の記事で説明した「担税力」すなわち、税金を支払う能力を平等原則に組み込まなければなりません。
したがって、租税公平主義とは、同じ担税力を持つ者には同じ税負担を課し、異なる担税力を持つ者には異なる税負担を課すべきである、ということを意味します。

この2つの原則は具体的な場面では、対立・緊張関係にあるため、租税法の解釈というのは、極論すればどこまでいっても上記の①租税法律主義と②租税公平主義をどのように両立させるべきか?両立しないとすれば、なるべく相反しないようにするにはどうすればよいか?を考える営みです。

さて、租税回避とは、取引の自由=取引の法形式等の選択の自由を利用して、取引上の合理性の観点(言い換えれば、税金を考えない場合の経済的な損得)からは何の合理的な理由が無いのに、普通は使われない異常な法形式を用いることで、法律の定める課税の要件にあたることを「回避」して税負担を軽くしつつ、本来の経済的目的達成する、という行為のことをいいます。

例えば、下記記事のタックスヘイブンを利用した取引では、日本企業である自分の持っている特許を、日本でのみ営業・生産活動を行う日本企業にライセンスしているにも関わらず、ライセンス料の支払先を、特許使用料の税率がとても低いケイマン諸島に作った全く実体のない会社にすることによって、日本での課税から逃れ、税率の低いケイマンで納税し、税負担を軽減しているのです。

「脱税」は事実そのものを隠したり虚偽を言ったりして、法律の要件にあたらないように振る舞うことですが、租税回避では嘘はついておらず、したがって法律違反は全く無い点が大きく異なります。
言い換えれば、法律に従った行為である以上、租税回避を行った者を罰することはもちろん、適正な税金を徴収することも出来ない点が、大きな問題です。

普通に、日本で営業・生産する日本企業にライセンスし、ライセンス料は自分が日本の銀行に持っている口座に振り込んでもらった(日本)企業は、高い税率である日本で、高い税金を収めるのですから、上記の異常な形式をとった=租税回避を行った会社との間で「不公平」が生じているのは明らかです。

つまり、租税回避の問題とは、「法律通り」の課税では、日本企業が支払先だけケイマンのペーパーカンパニーにするというような「異常な」取引をした者が、「普通の」取引をした者より税金を安くできる、という不「公平」が生じる、という問題です。言い換えれば、租税の2大原則である①租税法律主義と②租税公平主義がまともに衝突し、両立しない場面ということになります。

2大原則が両立しないということは、簡単に解決する制度は存在しない一方で、解決しないと税収が減り、税への信頼が低下し、税制そのものが崩壊しかねず、解決の必要が高いことを意味します。
そのために用意されている制度については、別の機会に書くことにします。

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暴力団は財産を持てるか?−権利能力と法人制度

「組長に使用者責任を認めた」と聞くと「『組』以外に組長の責任も認めたんだ!」と思う人がいますが、実は違います。

まず、「責任を認める」とは要するに損害賠償金を支払う「義務」がある、ということです。「義務がある」という以上、何らかの財産を持っていて、義務を果たさなかったら、権利者(下の事案では詐欺被害者)はその財産を差し押さえて、強制的に支払ってもらうという制度が必要です。例えば、犬に噛まれて犬を訴えて、犬に支払い命令(義務)が出ても、犬は財産を持てず、権利者は支払わせることはできません。

つまり、「義務を負担する」及びその反面として「権利を持てる」というための、「資格」が必要ということになります。法的には「権利能力」といいます。

まず、人間に権利能力があるのは当たり前です。赤ちゃんであっても、親戚が亡くなって財産を相続すれば財産を持てるように、人間であれば、人間であるという理由だけで、権利能力があり、財産を持てたり(権利)、何かの支払い「義務」を負担できたりします。

次に、人間以外に権利能力が認められるか?言い換えれば、人間以外が財産を持てたり、支払義務を負ったりするか?ということが問題になります。
それを可能にするための制度が「法人」という制度です。「法人」とは「法によって人格をもったもの」という意味で、人間ではないけれども、権利能力を認めるために、法律が(人為的に)作った権利能力が認められる存在ということになります。
例えば、株主という人の集合に権利能力を与えたのが、「株式会社」であり、誰かが寄付等した財産そのものに権利能力を与えたのが「財団法人」(美術館の運営主体等に多い)です。

なぜ、法人という制度を作らなければならないか?、なぜ法人という制度が認められるのか?については、法律学で中々深遠な議論があります。しかし、端的に言ってしまえば「便利」であり、「社会的に有益」だから、法人という制度を作らなければならないし、便利で有益だから制度として認められると言えます。
例えば株式会社は、多数の人が少しずつお金を出し合って、大きな取引主体を作り、他方で倒産したときの株主のリスクを出資の限度(要するに株が紙切れになるだけ)にとどめることで大きな取引主体を作りやすくなるという意味で「便利」であり、大きな取引主体ができると国の経済発展に資するという意味で「社会的に有益」だから、制度として必要であり、認められるのです。

さて、このことを暴力団についてあてはめてみるとどうなるでしょう。
暴力団は基本的に徒党を組んで、集団による有形力(暴力)や威勢を力の源泉としており、「暴力団員にとって便利」であるとは言えるかもしれません。
しかし、暴力団の存在が「社会的に有益」とは到底言えません。したがって、暴力団は「法人」として認められる存在ではなく、実際にも暴力団の法人化を認める法律はありません。

つまり、暴力団は一種の「個人事業」であり、組長の別名が「◯◯組」となる、屋号に近いイメージの存在です。そうすると、暴力団「◯◯組」の財産は、法的には組長である××の(個人)財産ということになります。

したがって、組長に責任が認められないとすると、実際に手を下した(多くは末端の)組員のみが責任を負担することになります。組員個人は権利能力はありますが、多くの場合現実にはあまり財産を持っていません。そうすると、被害者が賠償金をとることは事実上できなくなり、従来は、被害者は泣き寝入りを強いられることがほとんどでした。

「組長の責任が認められる」ということは、(法的には組長の個人資産である)「組の財産」を賠償金支払の原資にできることになり、被害者救済の点では非常に大きな意義を持ちます。
そのために、記事にもある通り、暴対法が改正されて末端組員の不法行為の「使用者責任」を組長に負わせることが法的に認められることになったということになります。

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婚姻と税のややこしい関係−その2

配偶者控除から夫婦控除へという流れのようですが、以前にも書いた通り婚姻と税はややこしい関係にあります。前回は婚姻するかしないかに着目してややこしさを説明しましたが、今回は「担税力」との関係を少し説明します。

担税力とは税法のキー概念の1つであり、要するに個人の「税を払う能力」のことを指します。例えば、収入が20万円で生活費に10万円かかる人より、収入が30万円で生活費に15万円かかる人の方が手元に残るお金は多いので、担税力が高いと評価されます。
担税力が高い分だけ多くの税を支払わせるのが、「公平」なので、前者では税率は10%(10万円×1%=1万円)だが、後者では税率は15%(15万円×15%=2万2500円)にしよう、というように考えます(これが累進課税の基本的な考え方です)。

婚姻と担税力の関係については、オルドマン=テンプルの法則と呼ばれる議論があります。これは、

第1に、共稼ぎ夫婦は同じ世帯所得の片稼ぎ夫婦に比べ、保育園費用等のコストや時間の犠牲があるため、担税力は小さい(これがいわゆる「内助の功」の議論の一端です)。

第2に、例えば、独身者は自分ひとりのためにバスタブ一杯にお湯をためますが、夫婦であれば1度ためたお湯に2人がつかるように、夫婦は共同生活上の「規模の利益」があります。したがって、共稼ぎ夫婦は合算して同額の収入がある独身者2人分よりも担税力があります。

第3に、第2とは逆に、例えば夫婦では布団が2つ必要であるように、独身者1人ではかからない、夫婦生活上の経費がかかります。したがって、片稼ぎ夫婦は、同じ所得の独身者と担税力は同じか低くなります。

以上をまとめると(世帯収入が1000万円とします)、
独身者(1000万)≧片稼ぎ夫婦(1000万,0)>共稼ぎ夫婦(500万,500万)>独身(500万)+独身(500万)
の順に担税力があることになります。

上記のオルドマン=テンプルの法則の妥当性、特に内助の功の評価の仕方、や、前回書いた税制と婚姻中立性の問題等が複雑に入り交じるのが、婚姻と税の関係のややこしさです。
そのため、決め手になるような制度は無く、時代背景、国家財政、目指すべき社会像等によって、配偶者控除、夫婦控除、扶養控除等を組み合わせて、制度を構築していかなければならず、かつ、それは不変ではあり得ないことになります。

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キセル乗車の悩ましさ

キセル乗車は、一般には身近でイメージしやすい犯罪ですが、法律的には中々ややこしい犯罪類型です。
適用される罪名は、(鉄道営業法28条違反を除けば)詐欺罪であり、

 刑法246条「①人を欺いて財物を交付させた者は、十年以下の懲役に処する。

②前項の方法により、財産上不法の利益を得、又は他人にこれを得させた者も、同項と同様とする。」

と規定されています。
やや分かりづらい規定ですが、要するに詐欺罪の成立のためには、ⅰ)犯人の欺く(だます)行為→ⅱ)だまされた人の誤信→ⅲ)誤信に基づく物や利益の供与、が必要であることを規定しているのです。
キセル乗車が悩ましいのは、ⅰ)犯人が誰をだまして、ⅲ)誰が利益を供与したのかがよくわからず、したがって詐欺罪は成立しないのではないか?との疑いがあるためです。
まず、乗車駅で本当の目的地より手前の切符を駅員さんに示したことをⅰ)だます行為ととらえ、電車運転手が犯人を本当の目的地まで運んだ行為を、ⅲ)利益の供与と捉えることが考えられます。
しかし、本当の目的地がどこだろうと、乗車駅の駅員さんに見せた切符は有効であり、駅員さんが駅への入場を拒否することはできないのではないか?、だまされて誤信しているのは乗車駅の駅員さんであって、電車の運転手ではないので、ⅲ)誤信に基づいて利益を供与した、とは言えないのではないか?等の疑問が投げかけられます。
次に、下車駅で下車駅の少し手前から乗ったかのような切符を改札で示すことをⅰ)だます行為ととらえ、改札の駅員さんが改札を通すことをⅲ)真に乗車した区間との差額を免除するという利益供与を行った、ととらえることが考えられます。
しかし、下車駅の改札の駅員さんは、犯人が真に乗車した区間の存在を意識しておらず、にもかかわらず差額を「免除した」とは言えないのではないか?との疑問が投げかけられます。
判例や学説の大勢は、乗車駅で見せた切符はキセル目的であり、権利行使に仮託したものにすぎないこと、駅員も運転手も同じ鉄道会社の職員であること、利益を「供与した」と言えるために、利益の存在を意識している必要はない等の理由により、詐欺罪の成立を認めています。
一般から見れば、なぜこんなことを考えるのかわかりにくいと思います。
それは、法律は、国会で定められ、国民の権利義務を定めるものであるため、安定した運用・適用がなされるべきである一方、法律の対象は社会全体であり、常に新しい社会的事象に向き合う必要性が高い、という二面性を有することに原因があります。
つまり、法律の条文文言を「解釈」することにより、新しい社会的事象に対応しつつ、「論理的に解釈」される範囲での適用を徹底することで、場当たり的な対応にならないようにして、法律の安定性を確保しているのです。

リーガルリサーチのITリテラシー

現在、リーガルリサーチをするにあたり、電子データベースの利用は必須というか不可避です。

 
したがって、リーガルリサーチにおいても、ITリテラシーが重要であるということになります。リーガルリサーチにおける技術論の中心がこの検索技術=ITリテラシーだと私は考えています。
 
ITリテラシーはリーガルリサーチ固有の問題ではなく、インターネット等を使い慣れた人にとっては常識論ともいえ、別個の問題ではない
という考えもありえます。しかし、リーガルリサーチで上手くいっていない(求める情報を得られていない)人の多くは、「普段のインターネット等の常識をリーガルリサーチに適用できていない」のではないか?との疑念が私にはあります。
 
例えば、「検索するとは情報を絞り込むこと」は、普段のインターネットでの検索(エンジンの利用)では、ほとんどの人が当然の前提としているITリテラシーだと思います。しかし、判例検索の場面で多くの人が検索結果が数百件という検索をしています。これは少しでも有利な判例を見つけたいがために、漏れを無くそうという意識が強いことが原因だと思います。
 
しかし、数百件の検索結果では重要な情報もそれ以外に埋もれてしまい見落とすリスクが高く、また、個々の重要性がわからない、という事態も引き起こすことは、通常の検索エンジンの利用と全く同じです。つまり、検索としては失敗です。
 
結局のところ、「漏れ無く、絞って」を目指すべきであり、リーガルリサーチにおいても通常のITリテラシーを発揮すべきことになります。
では、ではどうするんだ?ということになりますが、これはリーガルリサーチの理論面から考えていくことにより具体的方法が明確になってくる、というのが私の仮説です。
 
つまり、判例とは何か?事例判決とは何か?判例において重要な事実とは何か?といったことの考察から、どのような場合に検索対象を全文にすべきか?参照条文はどのような場合にどの程度有用か?などが演繹的にわかるのではないか?と考えているのです。
 
本ブログではこのリーガルリサーチの理論面と技術論(ITリテラシー)を「行ったり来たり」して検討し、時に「接合」を試みることでリーガルリサーチについて実践的かつ深く考察していこうと考えています。

リーガルリサーチに理論は必要か?-判例検索を題材に

判例検索の手法を考えるにあたって、弁護士はそもそも何故判例を探そうとするのか?について考察することは必須かつ有益です。

 
判例を探す理由を、思いつくままに挙げると、①法理ないし判例理論を探す、②判例理論の射程(特に限界)を探る、③自分の事件と似た事例の処理を探す、等が考えられます。もちろん、他にもたくさんあると考えられ、追々検討します。
 
もう少し突っ込むと、裁判官に判決で「原告の引用する判例は本件と事案が異なる」等と一蹴されないために、なるべく一般論の判示がないか?なるべく本件と似た事案がないか?を探すことが、判例検索の目的と考えるべき場合が多いとも言えます。
 
そうすると、判例検索でピックアップしたい判例とは、「裁判官が判例と認めざるを得ない」裁判例や「事例判決として尊重すべき」裁判例であり、検索結果から落としたいのは「事例判決ですらない」裁判例や「本件とは本質的部分の事実関係が異なる」裁判例ということになります。
 
これを前提にすると判例検索をする場合には、「判例とは何か?」「事例判決とは何か?」「判例において重要な事実とは何か?」という理論的な問題を考察せざるを得ないと考えられます。
 
この問題を検索技術論に引き直すと、「検索対象として全文と要旨に優先順位はあるか?」「あるとして具体的な検索手法はどうなるか?」「検索結果の内準備書面で引用すべき判例はどれか?」という、正に実務的に重要な問題となると考えられます。
 
以上のようなことから、私は、リーガルリサーチに理論は必要、という仮説を立てています。そして、その理論とITリテラシーを結びつけることが重要と考えていますが、それはまた別記事にします。
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