弁護士由井照彦のブログ

法律の視点からの社会・事件やリーガルリサーチについて

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租税回避への対処法

記事のように富裕層国税庁が監視するのは、9/30に書いた租税回避への対応の1つです。
しかし、租税回避と言われても具体的にはどのような事態・行為なのかがイメージしにくいと思います。そこで、租税回避の「最も素朴な」手法である同族会社における租税回避とそれを封じる立法措置について、説明します。
まず、Xという人が持ちビルを他人に貸しており、年間3000万円の賃料収入(不動産所得)を得ていたとします。当然、累進課税の下、3000万円に課税されるので、Xに他に収入がなければ税率は40%であり、控除を計算に入れれば税額は約920万円です。
次にXさんが自分が全株式を保有する会社Aを設立し、A社に「ビル管理」業務を委託します。その際に、管理料を2000万円と定めます。つまり、Xが得た3000万円の賃料の中から2000万円の管理料をA社に支払うのです。なお、ビル管理料の相場は年間200万円程度だとします。
そうすると、Xの所得は「収入−費用」ですから、1000万円となり、税率は33%であり、控除を計算に入れれば税額は約176万円となります。
A社では法人税が課税されますが、税率は23.9%であり、他に収入も支出もなければ税額は478万円です。
したがって、A社設立前は920万円だった税額が、A社を設立し、管理料を支払うと176万円+478万円=約654万円と、約266万円も減少します。
そして、XがA社の全株式を保有している以上、XはA社を支配できるのですから、A社の手元に残ったお金もXが基本的には自由に使えることになります。そうすると、全体としてみれば、普通にビルを貸している人より管理会社を設立した人の方が手元に残るお金が多いことになります。
ビル管理料の相場が200万円である以上、A社を設立してその10倍もの管理料2000万円を支払う合理性は全くありません。他方で、A社の設立は当然自由ですし、管理料の設定も契約である以上当事者であるXとA社の合意で自由に決められますので、上記は一切法令違反のない適法行為です。
すなわち適法だが異常な行為(A社設立+超高額な管理料支払い)により、普通の行為(単にビルを貸す)を行った場合より租税を減少させ、普通の行為を行った者との間に不公平が生じている、と言え、これを「租税回避」ということになります。ちなみにこの例は、「管理委託方式による租税回避」と言われることのある例です。
さて、このような行為を放置すると租税公平主義(等しき者には等しく課税・異なる者には異なる課税)に反します。しかし、法律の明文もなくXにA社が無かった場合と同様の課税をすると、租税法律主義(租税を課すには国会の定める法律が必要)に反してしまいます。そのため、所得税法157条がこのタイプの租税回避に対処しており、

所得税法157条1項「税務署長は、次に掲げる法人の行為又は計算で、これを容認した場合にはその株主等である居住者・・・の所得税の負担を不当に減少させる結果となると認められるものがあるときは・・・その行為又は計算にかかわらず、税務署長の認めるところにより、・・・に掲げる金額を計算することができる。一  ・・・同族会社」

 つまり、(Xとの間で同族会社と言える)A社の介在により税負担が不当に減少していると認められれば、A社との取引(=行為・計算)が無かったこととして(=否認して)課税できる、すなわち普通のビル賃貸が行われた場合と同様の課税をすることができる、ことを定めているのです。

所得税法157条は上記のように租税回避の内、「同族会社を使った」類型の「一部」について「行為計算の否認」という手法で対処したものです。

言い換えれば、租税回避への対処はこのように類型ごとに立法を行わなければ、租税法律主義に反してしまいます。これが租税回避とそれへの対処の応酬が、富裕者と課税庁の「いたちごっこ」と評される理由です。ただし、この「いたちごっこ」は国家財政の観点からも、国民の公平な租税負担を通じた租税・国家制度への信頼確保の観点からも重要なことです。
記事のような監視は、①すでにある規定を厳格に適用するという目的と、②上記いたちごっこをするために新たな類型の租税回避を発見する、という両側面があることになります。
 

外国での犯罪を処罰できるか

国際間の移動が容易になったことから、記事のように外国人が日本で犯罪を犯して、すぐ出国し母国に帰るという事態は増えてきています。

その場合に犯罪地の国が相手国に求める対応は大きく分けて①身柄の引渡し、②代理処罰の2つです。

身柄引渡しは犯人を国内に連れてきて裁判を受けさせ、処罰するということであり、引渡しが行われれば、問題は少ないと言えます。ただ、犯罪人引渡条約を結んでいない限り、引き渡されることはほとんどありません。そして、日本はアメリカと韓国としか犯罪人引渡条約を結んでいません。

引渡しを拒否された場合には、「相手国において相手国の法律に従って処罰を受けさせる」つまり代理処罰を相手国に求めることになりますが、これには大きな問題があります。つまり、代理処罰を求められた国は他国での犯罪を自国の法律で処罰できるか?という点をクリアしなければならないのです。

私は外国法はわかりませんので、日本が代理処罰を求められた場合に引き直して説明します。

犯罪に対する処罰を定めている法律、つまり刑法は冒頭で、

刑法1条「①この法律は、日本国内において罪を犯したすべての者に適用する。」

と規定し、刑法が適用される対象は「日本国内での犯罪」であるとの原則を定めていることになります(これを「属地主義」と言います。)

しかし、属地主義には重大な例外がいくつか定められています。まず、

刑法3条「この法律は、日本国外において次に掲げる罪を犯した日本国民に適用する。(列挙罪名略)」

として、「犯罪地がどこであろうと日本人が犯せば」日本国内で処罰できる罪を列挙しており、殺人罪罪、現住建造物放火等の重罪がこれにあたるとされます。

また、

刑法4条「この法律は、日本国外において次に掲げる罪を犯した日本国の公務員に適用する。(列挙罪名略)」

とし、「犯罪地がどこであろうと日本国の公務員が犯せば」日本国内で処罰できる罪を列挙しており、収賄罪や公務員職権濫用罪等のいわゆる公務員犯罪がこれにあたるとされています。

逆に、

刑法3条の2「この法律は、日本国外において日本国民に対して次に掲げる罪を犯した日本国民以外の者に適用する。」

とし、「犯罪地がどこであろうと犯人が外国人であろうと被害者が日本人ならば」日本国内で処罰できる罪を列挙しており、殺人罪や強姦・強制わいせつ罪、強盗罪等の生命・身体に害を及ぼす犯罪等がこれにあたるとされています。

そして、

刑法2条「この法律は、日本国外において次に掲げる罪を犯したすべての者に適用する。」

として、「犯罪地がどこであろうと犯人の国籍や被害者が日本人かどうかを問わず」日本国内で処罰できる犯罪を列挙しており、内乱罪関係、通貨偽造罪、公文書偽造罪等がこれにあたるとされています。

その他、条約により属地主義に対する例外が定められている場合もあります。

このように大きな例外がありつつも、外国で犯された犯罪の全てが日本国内で処罰できるわけではありません。立場を変えれば、日本での犯罪が相手国で処罰できるとは限らないことになります。

このように、外国籍の犯罪者が国外に逃亡してしまうと、処罰できる範囲が限られる場合があることから、ニュースにもなるような社会問題になるということです。

もっとも、今回の記事の件は殺人という重罪であり、しかも刑罰が一般に日本より厳しいと思われる中国が相手国であり、問題となっている容疑者が「逃げ得」になる可能性は低いかもしれません。

headlines.yahoo.co.jp

事実はなかなかわからない

高畑氏の件では、当初報道・弁護人の声明・後追い報道数種、と色々なことが報道されています。
このことは、私たち弁護士などの法曹の考え方の一端を説明するのにとても示唆的です。つまり、「事実はなかなかわからない」ということです。

司法試験に受かると、約一年間「司法修習」という一種の研修があり、裁判官・検察官・弁護士のそれぞれの実務を学びます。その後に通称2回試験と呼ばれる試験があり、合格してはじめて裁判官や弁護士として活動できます。

その司法修習での大きな課題・学びが「事実認定」です。つまり、「何が事実なのか?」を考える専門的な訓練を受けて、テストされるのです。

タイムマシンが無い以上、社会で起こった出来事・事実について、後から「何が起こったか?」を確定することは、事件の痕跡である①証拠と②証拠からの推理によるしかありません。
そして、普段人は証拠を残して行動しようとは思ってないので、証拠は断片的にならざるを得ません。断片的なので、その間をつなぐのは結局推理でしかなく、確実な真実に行き着くことはかなり難しい作業です。

例えば、高畑氏の件でホテルの廊下から部屋に入って行く映像が残っていたとしても(そのような映像があるかどうかはわかりませんが)、その前後の様子もわからず、音声も残っていない状態では、それが無理矢理連れ込んでいるのか、仲良く入っていくのかを確定することは困難を極めます。他の事実や証拠を併せ考えて認定していくことになりますが、その証拠もまた断片的にしかないことがほとんどです。

その上、民事の離婚事件等で顕著になることが多いのですが、まったく同じ事実を見ていても、夫が見た風景、妻が見た風景、子供が見た風景がそれぞれに異なり、しかもそれぞれは嘘をついている訳ではないことがママあります。合意があったか否かに争いがある性犯罪についても起こり得る事態です。
それぞれが嘘をついていないので、その他の証拠もそれぞれの話に矛盾するとまで言えない可能性も高く、やはり事実認定はとても難しいことになります。

また、証拠が玉石混淆であることも事実認定を複雑にします。
例えば、高畑氏の件で「歯ブラシを持ってくるよう言った」との報道がありましたが、それが①高畑氏の供述なのか、②女性の供述なのか、③それ以外の第三者の又聞き供述なのか、によって、その事実があった、と認定できる確実性は大きく異なります。
つまり、その証拠がどこまで信用できて、どこまでの事実を、どの程度推理できるかの判断も、事実認定には必要と言うことになります。

上記のような難しさが事実認定にはあるため、事実認定の専門的な訓練を受けた私たち法曹は「何があったのか」ということについては、一般の人より慎重に考えることになります。

 

zasshi.news.yahoo.co.jp

そもそも所得とは何か?−婚姻と税のややこしさ3

配偶者控除と夫婦控除については、百家争鳴となった上で、先送りされそうです。

我が国の税収の52.6%が所得税法人税・住民税・事業税等の「所得」に対する課税です。また、資産に対する課税の内、贈与税と相続税は所得に対する課税とも考えられる税です(異論はあります)。

日頃話題になることの多い、消費課税は消費税・酒税等全て合わせても、税収の33.7%に過ぎない(消費税単独では17.1%しかない)ことを考えれば、「所得」課税制度が私達の暮らし・企業活動に大きな影響を及ぼすことがわかると思います。だからこそ、所得税制を改正しようとすると、今回のように議論が百出するのです。

したがって、税又は配偶者控除等に対する自分の考えをまとめるにあたっては、そもそも「所得」とは何か?、という視点を持つことは有益だと思います。

「所得」というのは、端的には「経済的な利得」であると言われます。ある人に経済的な利得があれば、その中から税を支払う能力、すなわち担税力が発生することになるので、所得の一部を税として徴収しよう&徴収するのが公平だ、というのが所得税法人税等の基本的な考え方です。

しかし、問題はその先にあります。
「経済的」ですから、「善意」とか「燃えるような恋」とかは、所得には含まれません。
他方で、経済的に評価できる「利得」であれば全てが「所得」に含まれ、金銭に限られないことになります。

そのため、例えばある土地を持っていて、その土地の近くに駅やスーパーができて土地の値段が10倍になったとします。自分の土地の値段が上がったのですから、「経済的な利得」は明らかに発生しており(いわゆるキャピタル・ゲイン)、担税力もありますから所得として課税されるべきことになります。
しかし、当然ですが実際には売ってない以上、土地所有者の手元には現金が無く、また、その後に価格が下がるかもしれず、税を価格上昇時に徴収するのは技術的に困難です。
ですから、キャピタル・ゲインは土地売却時に精算的に課税することになっています。

また、専業主婦の家事労働(内助の功の1つ)も実は所得です。
9/29のオルドマン−テンプルの法則の説明の際に少し書きましたが、共稼ぎ世帯やひとり親家庭では、子どもを託児所に預けねばならず、費用がかかりますが、専業主婦世帯ではそれがかかりません。これは、専業主婦の家事「労働」により、託児所費用分の経済的利得がその家庭に発生していると考えることができます。したがって、家事労働についても対価等を計算して「所得」を算出し、課税すべきと考えるのが素直です。
しかし、これまた当然ですが家事労働の額を算定することは不可能であり、税を徴収するのは技術的に困難です(キャピタル・ゲインと異なり、タイミングの問題ですらありません)。

税の徴収が困難である以上、現行法上納税義務はもちろんありません。9/29のオルドマン-テンプルの法則もこれを前提にしています。

しかし、所得が発生している=担税力がある以上、本来は課税するのが「公平」と言えるのも確かであり、したがって、この点について何らかの調整的な制度を設ける方が「公平」ということになります。

配偶者控除や今後導入されるかもしれない夫婦控除には、婚姻中立性、女性の社会進出、103万円の壁問題、国の財政事情等複雑な事情や目的が絡み合い、議論が非常にわかりにくくなっています。
わかりにくい議論を理解するためには、それぞれの事情・目的を1つ1つ分解して、考えることが必要であり、分解・分析の道具の一つとして、上記の所得概念を使うことは有益だと思われます。

headlines.yahoo.co.jp

法律の「趣旨」の考え方−ゲス極川谷氏を題材に

彼の恋愛スタイルはある意味一貫しているように見えますが、それはともかく、今回の件で「法的に悪いのは飲酒した未成年者か?飲ませた成年者か?」を考えることは、私達法律家がいつも気にする「法律の趣旨」を説明するのによい題材です。
「法律の趣旨」とは、その法律の目的、目指すべき社会等のことであり、法律全体の趣旨が個々の条文の趣旨に落とし込まれ、条文文言の解釈や警察・行政の運用の指針となります。
最近できた(又は大きな改正があった)法律では、1条に当該法律の趣旨・目的が書いてあることも多くなってきていますが、それが無いことも多く、裁判所や裁判所にアピールする私達法律家が自分自身で「法律の趣旨」を考えざるを得ないこともかなりあります。
その際には、立法時の国会審議録等を参考にすることもあるのですが、基本はやはり「条文の構造」「条文の文言」ということになります。
未成年者の飲酒については未成年者飲酒禁止法が定めており、
未成年者飲酒禁止法第1条「①満二十年に至らざる者は酒類を飲用することを得ず
②未成年者に対して親権を行う者もしくは親権者に代りて之を監督する者未成年者の飲酒を知りたるときは之を制止すべし
③ 営業者にして其の業態上酒類を販売又は供与する者は満二十年に至らざる者の飲用に供することを知りて酒類を販売又は供与することを得ず」
1項で未成年者「自身」の飲酒を禁止し、2項で親や監督者に対して、未成年者の飲酒を制止する義務を課し、3項で酒屋さん等に未成年者への酒の販売を禁止していることはわかりますが、未成年者の飲酒を法で禁止する趣旨は書いてありません。
同法の目的について考えるヒントは、上記の禁止・義務違反への対応にあります。
まず、未成年者自身については、
同法2条「満二十年に至らざる者が其の飲用に供する目的を以て所有又は所持する酒類及其の器具は行政の処分を以て之を没収し又は廃棄其の他の必要なる処置を為さしむることを得」
とされており、要するに酒等を没収してしまうことが定められています。逆に言えば、それ以外の刑罰等は定められていないことがポイントです。
これに対し、親等の監視者については
同法3条「②第一条第二項の規定に違反したる者は科料に処す」
と定められています。科料とは、1万円未満の罰金のことです。つまり、軽いながらも刑罰が定められています。
更に、未成年者に酒等を売った酒屋さん等については、

同条「①第一条第三項の規定に違反したる者は五十万円以下の罰金に処す」

と定められています。親等よりはるかに重い罰金が定められていることになります。
以上をまとめると、未成年者飲酒禁止法は、ⅰ)飲酒した未成年者に対しては酒等を没収するが刑罰は科さず、ⅱ)親等が監視・制止を怠ったら軽い刑罰を科し、ⅲ)未成年者に酒を売った者に最も重い刑罰を科していることになります。 
上記のことから、未成年者飲酒法の趣旨を考えていくと、まず未成年者を罰することは目的となっておらず、親等の監視義務を課し、酒販売者に未成年者への販売を禁止することで「未成年者を酒から遠ざける」ことが、主な目的・趣旨であると考えられます。つまり、未成年者は同法で「保護」されている存在です。
次に、親等は一般的に未成年者に配慮・保護する義務があり、その保護義務の中に飲酒を制止する義務が含まれることを、未成年者禁止法は確認し、その違反には軽いながらも刑罰をもって臨んでいると、考えられます。
最後に、酒の販売業者が酒を未成年者に売った場合は、未成年者に酒を直接的に「近づけている」のであり、法の趣旨である「未成年者を酒から遠ざける」ことに思い切り反するので、最も重く罰せられる、と考えることができます。
上記のような条文構造や条文の文言を手がかりとしつつ、更に国会審議録等も参考にして、「法律の趣旨」を考えて、法律の具体的適用や解決を図るのが私達法律家の仕事の1つです。 
 
ちなみに、今回の件ではゲス極川谷氏が「親権を行う者もしくは親権者に代りて之を監督する者」にあたることは無いように思われ、彼自身が未成年者飲酒禁止法で罰せられることはないと考えられます。
他方で、恋人に酒を提供したバーのバーテンダー等は、恋人が未成年者であると知っていれば(故意があれば)、同法違反に問われる可能性もあると考えられます。

租税回避の何が問題か?

パナマ文書の発見により、租税回避地タックス・ヘイブン)を利用した、不当な税金逃れが問題となっています。しかしそもそも、「租税回避」と「脱税」はどう違うのか?脱税ではないのに何が問題なのか?等、基本的事項ついては意外と知られていません。

まず、税法の適用や運用にあたって、税法の2大原則とすら言えるほどに超重要な原則があります。それが、①租税法律主義と②租税公平主義です。

租税法律主義とは、憲法に定めがあり

憲法84条「あらたに租税を課し、又は現行の租税を変更するには、法律又は法律の定める条件によることを必要とする。」

と定められています。
要するに、国民から税金を徴収するには、国会で、ⅰ)どのような財産・収入について、ⅱ)具体的な額・税率で、ⅲ)どのような手続きで徴収するか等を明確に決めることが求められています。
国家が国民の大事な財産・収入を国家権力を使って、その一部を支払わせるのですから、国会ではっきり決めておきましょう、ということです。

租税公平主義も平等原則という形で憲法に定めがあり、

憲法14条「すべて国民は、法の下に平等であつて、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない。(2項以下略)」

と定められています。
ただ、租税に引きなおす場合には、9/26の記事で説明した「担税力」すなわち、税金を支払う能力を平等原則に組み込まなければなりません。
したがって、租税公平主義とは、同じ担税力を持つ者には同じ税負担を課し、異なる担税力を持つ者には異なる税負担を課すべきである、ということを意味します。

この2つの原則は具体的な場面では、対立・緊張関係にあるため、租税法の解釈というのは、極論すればどこまでいっても上記の①租税法律主義と②租税公平主義をどのように両立させるべきか?両立しないとすれば、なるべく相反しないようにするにはどうすればよいか?を考える営みです。

さて、租税回避とは、取引の自由=取引の法形式等の選択の自由を利用して、取引上の合理性の観点(言い換えれば、税金を考えない場合の経済的な損得)からは何の合理的な理由が無いのに、普通は使われない異常な法形式を用いることで、法律の定める課税の要件にあたることを「回避」して税負担を軽くしつつ、本来の経済的目的達成する、という行為のことをいいます。

例えば、下記記事のタックスヘイブンを利用した取引では、日本企業である自分の持っている特許を、日本でのみ営業・生産活動を行う日本企業にライセンスしているにも関わらず、ライセンス料の支払先を、特許使用料の税率がとても低いケイマン諸島に作った全く実体のない会社にすることによって、日本での課税から逃れ、税率の低いケイマンで納税し、税負担を軽減しているのです。

「脱税」は事実そのものを隠したり虚偽を言ったりして、法律の要件にあたらないように振る舞うことですが、租税回避では嘘はついておらず、したがって法律違反は全く無い点が大きく異なります。
言い換えれば、法律に従った行為である以上、租税回避を行った者を罰することはもちろん、適正な税金を徴収することも出来ない点が、大きな問題です。

普通に、日本で営業・生産する日本企業にライセンスし、ライセンス料は自分が日本の銀行に持っている口座に振り込んでもらった(日本)企業は、高い税率である日本で、高い税金を収めるのですから、上記の異常な形式をとった=租税回避を行った会社との間で「不公平」が生じているのは明らかです。

つまり、租税回避の問題とは、「法律通り」の課税では、日本企業が支払先だけケイマンのペーパーカンパニーにするというような「異常な」取引をした者が、「普通の」取引をした者より税金を安くできる、という不「公平」が生じる、という問題です。言い換えれば、租税の2大原則である①租税法律主義と②租税公平主義がまともに衝突し、両立しない場面ということになります。

2大原則が両立しないということは、簡単に解決する制度は存在しない一方で、解決しないと税収が減り、税への信頼が低下し、税制そのものが崩壊しかねず、解決の必要が高いことを意味します。
そのために用意されている制度については、別の機会に書くことにします。

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暴力団は財産を持てるか?−権利能力と法人制度

「組長に使用者責任を認めた」と聞くと「『組』以外に組長の責任も認めたんだ!」と思う人がいますが、実は違います。

まず、「責任を認める」とは要するに損害賠償金を支払う「義務」がある、ということです。「義務がある」という以上、何らかの財産を持っていて、義務を果たさなかったら、権利者(下の事案では詐欺被害者)はその財産を差し押さえて、強制的に支払ってもらうという制度が必要です。例えば、犬に噛まれて犬を訴えて、犬に支払い命令(義務)が出ても、犬は財産を持てず、権利者は支払わせることはできません。

つまり、「義務を負担する」及びその反面として「権利を持てる」というための、「資格」が必要ということになります。法的には「権利能力」といいます。

まず、人間に権利能力があるのは当たり前です。赤ちゃんであっても、親戚が亡くなって財産を相続すれば財産を持てるように、人間であれば、人間であるという理由だけで、権利能力があり、財産を持てたり(権利)、何かの支払い「義務」を負担できたりします。

次に、人間以外に権利能力が認められるか?言い換えれば、人間以外が財産を持てたり、支払義務を負ったりするか?ということが問題になります。
それを可能にするための制度が「法人」という制度です。「法人」とは「法によって人格をもったもの」という意味で、人間ではないけれども、権利能力を認めるために、法律が(人為的に)作った権利能力が認められる存在ということになります。
例えば、株主という人の集合に権利能力を与えたのが、「株式会社」であり、誰かが寄付等した財産そのものに権利能力を与えたのが「財団法人」(美術館の運営主体等に多い)です。

なぜ、法人という制度を作らなければならないか?、なぜ法人という制度が認められるのか?については、法律学で中々深遠な議論があります。しかし、端的に言ってしまえば「便利」であり、「社会的に有益」だから、法人という制度を作らなければならないし、便利で有益だから制度として認められると言えます。
例えば株式会社は、多数の人が少しずつお金を出し合って、大きな取引主体を作り、他方で倒産したときの株主のリスクを出資の限度(要するに株が紙切れになるだけ)にとどめることで大きな取引主体を作りやすくなるという意味で「便利」であり、大きな取引主体ができると国の経済発展に資するという意味で「社会的に有益」だから、制度として必要であり、認められるのです。

さて、このことを暴力団についてあてはめてみるとどうなるでしょう。
暴力団は基本的に徒党を組んで、集団による有形力(暴力)や威勢を力の源泉としており、「暴力団員にとって便利」であるとは言えるかもしれません。
しかし、暴力団の存在が「社会的に有益」とは到底言えません。したがって、暴力団は「法人」として認められる存在ではなく、実際にも暴力団の法人化を認める法律はありません。

つまり、暴力団は一種の「個人事業」であり、組長の別名が「◯◯組」となる、屋号に近いイメージの存在です。そうすると、暴力団「◯◯組」の財産は、法的には組長である××の(個人)財産ということになります。

したがって、組長に責任が認められないとすると、実際に手を下した(多くは末端の)組員のみが責任を負担することになります。組員個人は権利能力はありますが、多くの場合現実にはあまり財産を持っていません。そうすると、被害者が賠償金をとることは事実上できなくなり、従来は、被害者は泣き寝入りを強いられることがほとんどでした。

「組長の責任が認められる」ということは、(法的には組長の個人資産である)「組の財産」を賠償金支払の原資にできることになり、被害者救済の点では非常に大きな意義を持ちます。
そのために、記事にもある通り、暴対法が改正されて末端組員の不法行為の「使用者責任」を組長に負わせることが法的に認められることになったということになります。

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