弁護士由井照彦のブログ

法律の視点からの社会・事件やリーガルリサーチについて

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婚姻と税のややこしい関係−その2

配偶者控除から夫婦控除へという流れのようですが、以前にも書いた通り婚姻と税はややこしい関係にあります。前回は婚姻するかしないかに着目してややこしさを説明しましたが、今回は「担税力」との関係を少し説明します。

担税力とは税法のキー概念の1つであり、要するに個人の「税を払う能力」のことを指します。例えば、収入が20万円で生活費に10万円かかる人より、収入が30万円で生活費に15万円かかる人の方が手元に残るお金は多いので、担税力が高いと評価されます。
担税力が高い分だけ多くの税を支払わせるのが、「公平」なので、前者では税率は10%(10万円×1%=1万円)だが、後者では税率は15%(15万円×15%=2万2500円)にしよう、というように考えます(これが累進課税の基本的な考え方です)。

婚姻と担税力の関係については、オルドマン=テンプルの法則と呼ばれる議論があります。これは、

第1に、共稼ぎ夫婦は同じ世帯所得の片稼ぎ夫婦に比べ、保育園費用等のコストや時間の犠牲があるため、担税力は小さい(これがいわゆる「内助の功」の議論の一端です)。

第2に、例えば、独身者は自分ひとりのためにバスタブ一杯にお湯をためますが、夫婦であれば1度ためたお湯に2人がつかるように、夫婦は共同生活上の「規模の利益」があります。したがって、共稼ぎ夫婦は合算して同額の収入がある独身者2人分よりも担税力があります。

第3に、第2とは逆に、例えば夫婦では布団が2つ必要であるように、独身者1人ではかからない、夫婦生活上の経費がかかります。したがって、片稼ぎ夫婦は、同じ所得の独身者と担税力は同じか低くなります。

以上をまとめると(世帯収入が1000万円とします)、
独身者(1000万)≧片稼ぎ夫婦(1000万,0)>共稼ぎ夫婦(500万,500万)>独身(500万)+独身(500万)
の順に担税力があることになります。

上記のオルドマン=テンプルの法則の妥当性、特に内助の功の評価の仕方、や、前回書いた税制と婚姻中立性の問題等が複雑に入り交じるのが、婚姻と税の関係のややこしさです。
そのため、決め手になるような制度は無く、時代背景、国家財政、目指すべき社会像等によって、配偶者控除、夫婦控除、扶養控除等を組み合わせて、制度を構築していかなければならず、かつ、それは不変ではあり得ないことになります。

headlines.yahoo.co.jp

キセル乗車の悩ましさ

キセル乗車は、一般には身近でイメージしやすい犯罪ですが、法律的には中々ややこしい犯罪類型です。
適用される罪名は、(鉄道営業法28条違反を除けば)詐欺罪であり、

 刑法246条「①人を欺いて財物を交付させた者は、十年以下の懲役に処する。

②前項の方法により、財産上不法の利益を得、又は他人にこれを得させた者も、同項と同様とする。」

と規定されています。
やや分かりづらい規定ですが、要するに詐欺罪の成立のためには、ⅰ)犯人の欺く(だます)行為→ⅱ)だまされた人の誤信→ⅲ)誤信に基づく物や利益の供与、が必要であることを規定しているのです。
キセル乗車が悩ましいのは、ⅰ)犯人が誰をだまして、ⅲ)誰が利益を供与したのかがよくわからず、したがって詐欺罪は成立しないのではないか?との疑いがあるためです。
まず、乗車駅で本当の目的地より手前の切符を駅員さんに示したことをⅰ)だます行為ととらえ、電車運転手が犯人を本当の目的地まで運んだ行為を、ⅲ)利益の供与と捉えることが考えられます。
しかし、本当の目的地がどこだろうと、乗車駅の駅員さんに見せた切符は有効であり、駅員さんが駅への入場を拒否することはできないのではないか?、だまされて誤信しているのは乗車駅の駅員さんであって、電車の運転手ではないので、ⅲ)誤信に基づいて利益を供与した、とは言えないのではないか?等の疑問が投げかけられます。
次に、下車駅で下車駅の少し手前から乗ったかのような切符を改札で示すことをⅰ)だます行為ととらえ、改札の駅員さんが改札を通すことをⅲ)真に乗車した区間との差額を免除するという利益供与を行った、ととらえることが考えられます。
しかし、下車駅の改札の駅員さんは、犯人が真に乗車した区間の存在を意識しておらず、にもかかわらず差額を「免除した」とは言えないのではないか?との疑問が投げかけられます。
判例や学説の大勢は、乗車駅で見せた切符はキセル目的であり、権利行使に仮託したものにすぎないこと、駅員も運転手も同じ鉄道会社の職員であること、利益を「供与した」と言えるために、利益の存在を意識している必要はない等の理由により、詐欺罪の成立を認めています。
一般から見れば、なぜこんなことを考えるのかわかりにくいと思います。
それは、法律は、国会で定められ、国民の権利義務を定めるものであるため、安定した運用・適用がなされるべきである一方、法律の対象は社会全体であり、常に新しい社会的事象に向き合う必要性が高い、という二面性を有することに原因があります。
つまり、法律の条文文言を「解釈」することにより、新しい社会的事象に対応しつつ、「論理的に解釈」される範囲での適用を徹底することで、場当たり的な対応にならないようにして、法律の安定性を確保しているのです。

リーガルリサーチのITリテラシー

現在、リーガルリサーチをするにあたり、電子データベースの利用は必須というか不可避です。

 
したがって、リーガルリサーチにおいても、ITリテラシーが重要であるということになります。リーガルリサーチにおける技術論の中心がこの検索技術=ITリテラシーだと私は考えています。
 
ITリテラシーはリーガルリサーチ固有の問題ではなく、インターネット等を使い慣れた人にとっては常識論ともいえ、別個の問題ではない
という考えもありえます。しかし、リーガルリサーチで上手くいっていない(求める情報を得られていない)人の多くは、「普段のインターネット等の常識をリーガルリサーチに適用できていない」のではないか?との疑念が私にはあります。
 
例えば、「検索するとは情報を絞り込むこと」は、普段のインターネットでの検索(エンジンの利用)では、ほとんどの人が当然の前提としているITリテラシーだと思います。しかし、判例検索の場面で多くの人が検索結果が数百件という検索をしています。これは少しでも有利な判例を見つけたいがために、漏れを無くそうという意識が強いことが原因だと思います。
 
しかし、数百件の検索結果では重要な情報もそれ以外に埋もれてしまい見落とすリスクが高く、また、個々の重要性がわからない、という事態も引き起こすことは、通常の検索エンジンの利用と全く同じです。つまり、検索としては失敗です。
 
結局のところ、「漏れ無く、絞って」を目指すべきであり、リーガルリサーチにおいても通常のITリテラシーを発揮すべきことになります。
では、ではどうするんだ?ということになりますが、これはリーガルリサーチの理論面から考えていくことにより具体的方法が明確になってくる、というのが私の仮説です。
 
つまり、判例とは何か?事例判決とは何か?判例において重要な事実とは何か?といったことの考察から、どのような場合に検索対象を全文にすべきか?参照条文はどのような場合にどの程度有用か?などが演繹的にわかるのではないか?と考えているのです。
 
本ブログではこのリーガルリサーチの理論面と技術論(ITリテラシー)を「行ったり来たり」して検討し、時に「接合」を試みることでリーガルリサーチについて実践的かつ深く考察していこうと考えています。

リーガルリサーチに理論は必要か?-判例検索を題材に

判例検索の手法を考えるにあたって、弁護士はそもそも何故判例を探そうとするのか?について考察することは必須かつ有益です。

 
判例を探す理由を、思いつくままに挙げると、①法理ないし判例理論を探す、②判例理論の射程(特に限界)を探る、③自分の事件と似た事例の処理を探す、等が考えられます。もちろん、他にもたくさんあると考えられ、追々検討します。
 
もう少し突っ込むと、裁判官に判決で「原告の引用する判例は本件と事案が異なる」等と一蹴されないために、なるべく一般論の判示がないか?なるべく本件と似た事案がないか?を探すことが、判例検索の目的と考えるべき場合が多いとも言えます。
 
そうすると、判例検索でピックアップしたい判例とは、「裁判官が判例と認めざるを得ない」裁判例や「事例判決として尊重すべき」裁判例であり、検索結果から落としたいのは「事例判決ですらない」裁判例や「本件とは本質的部分の事実関係が異なる」裁判例ということになります。
 
これを前提にすると判例検索をする場合には、「判例とは何か?」「事例判決とは何か?」「判例において重要な事実とは何か?」という理論的な問題を考察せざるを得ないと考えられます。
 
この問題を検索技術論に引き直すと、「検索対象として全文と要旨に優先順位はあるか?」「あるとして具体的な検索手法はどうなるか?」「検索結果の内準備書面で引用すべき判例はどれか?」という、正に実務的に重要な問題となると考えられます。
 
以上のようなことから、私は、リーガルリサーチに理論は必要、という仮説を立てています。そして、その理論とITリテラシーを結びつけることが重要と考えていますが、それはまた別記事にします。

身代わり犯人を頼むのも引き受けるのもマイナスしかない

犯人の知人や家族が本人の身代わりに自首する、という事件は交通事故を中心にしばしば見られます。その際に適用されるのが、記事にもある「犯人隠避罪」という罪です。 
これは、
刑法103条「罰金以上の刑に当たる罪を犯した者又は拘禁中に逃走した者を蔵匿し、又は隠避させた者は、三年以下の懲役又は三十万円以下の罰金に処する。」
とされているものです。
「蔵匿」とは、警察等から犯罪の嫌疑をかけられている人(いわゆる「容疑者」)に場所(隠れ家)を提供してかくまうことであり、「隠避」とは、それ以外の方法で警察等による容疑者の発見・逮捕等を難しくすることです。
つまり、容疑者を警察等が発見することを難しくする行為をすれば、犯人隠避罪が成立します。 
ここで重要なのは、この罪は「身代わりになった人」に成立する罪だということです。
最初に身代わり犯人の自首は交通事故に多いと書きましたが、このことは、身代わり犯人の多くが、ほとんどの場合交通切符を切られるか、悪くて罰金しか科されないことを前提に、身代わりを引き受けていることを示していると思われます。
だからこそ、真犯人が身代わりになる人にお金を払って、身代わりになってもらう、という事態が生じるのです。
しかし、それがバレれば身代わりになった人に犯人隠避罪が成立し、上記の規定から分かる通り、同罪は3年以下の懲役刑を含むそれなりに重い刑罰が科される罪です。したがって、お金をもらって身代わりになるというのは、基本的にはリスクが高く、割に合わない行為です。 
他方、刑法103条の規定からは、「自分を自分でかくまう」ことは出来ない(単に逃げてるだけ)以上、容疑者自身には、同罪は成立しないのが原則です。
しかし、他の人に身代わりなるよう頼んで自首させることについて判例は、「防御権の乱用である」という理由で、身代わりの人の「共犯」という形で、犯人隠避罪が成立するとしています(学説上は異論が強いのですが)。
そうすると、結局、身代わりになった人は犯人隠避罪で処罰され、犯人本人は本来の容疑だった犯罪+犯人隠避罪(併合罪といって刑が重くなります)で処罰されることになり、全体として単に刑を受ける人が増えて、かつ、重くなる、というマイナスしか無い事態を招くことになります。

リーガルリサーチについて経歴の自白

リーガルリサーチについて、ちまちまと書いていこうと思っています。


ブログ主である由井は弁護士になる前、第一法規株式会社に勤めていたことがあり、判例体系の編集やそのWeb商品である「D1-Law.com」編集に携わっていました(但し、下っ端)。
 
同社退職後にロースクールに行き、司法試験を受験し、弁護士になるという経過を辿ったことから、検索システムとリーガルリサーチの基礎的手法について考えることがそれなりにあるため、ブログの形で思いつくままに書いてくことにしました。
 
本ブログはまとまった思考を書くのではなく、試論や検証前の仮説を含み、書く順番についても全く秩序立てていません。
 
また、検索システムについては中立的に考えているつもりですが、上記のような経歴によるバイアスがあり得ることは自覚しています

「法律は条文文言が決定的に大事」−蓮舫氏二重国籍問題を題材に

蓮舫氏の二重国籍問題についての議論の前提としての法律の規定について、国籍法と別の観点から説明します。ここで説明したいのは蓮舫氏の二重国籍の問題性ではなく、「法律は条文文言が決定的に大事」という法解釈の基本的スタンスについてです。
蓮舫氏が台湾籍を有していたことで「日本国と利益が相反するからけしからん」のような言説が一部にあります。この点の法律はどうなっているかというと、まず、蓮舫氏は国会議員ですのでその資格が問題となります。これについては、公職選挙法に規定があり、

公選法10条「日本国民は、(略)、それぞれ当該議員又は長の被選挙権を有する。」

とされています。前回も書いた国籍法によれば、

国籍法2条「子は、次の場合には、日本国民とする。一 出生の時に父又は母が日本国民であるとき。(略)」

ということになっていますので、蓮舫氏には日本国籍があり、したがって、被選挙権=国会議員になる資格があります。
上記の公選法の規定は、少なくとも公選法上、すなわち国会議員になる資格(=被選挙権)との関係では、外国との利益相反の有無を、日本国籍を保有するか否かで判断するという立法府=国会の判断が示されています。
このことは、外務公務員(いわゆる外交官)になる資格についての規定と比較すると明らかです。すなわち、

外務公務員法7条「(略)国籍を有しない者又は外国の国籍を有する者は、外務公務員となることができない。」

と規定されており、外交官における外国との利益相反の有無を、日本国籍の保有に加えて「外国籍を有しないこと」つまり、二重国籍者でないか否かで判断する、という立法府=国会の判断が示されています。(ちなみに、外務公務員法の規定は、日本国籍を保有する二重国籍者の資格制限を定めるほとんど唯一の規定です。

立法府=国会は法律を変えることが出来る以上、公選法と外務公務員法の文言を同じにすることは当然にできます。それをしていない以上、少なくとも立法府=国会は国会議員になる資格=被選挙権との関係では二重国籍を問題にしていない、との解釈が基本になります(いわば「条文文言そのまま」の解釈)。

もちろん、様々な実質的な考慮から上記の基本とは異なる解釈が(多くは裁判所によって)なされることもあります。ただ、その際には、「条文文言そのまま」の解釈とは異なる解釈をする理由がシビアに求められるため、判決等でかなりのボリュームの理由付けが述べられます。
上記のような意味で、「法律は条文文言が決定的に大事」ということになります。我々弁護士等法律に携わる人が「六法」なる法文集をいつもペラペラめくっているのもそこに理由があります。
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