弁護士由井照彦のブログ

法律の視点からの社会・事件やリーガルリサーチについて

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逮捕・捜索されなければいいのか?−法務省見解の意味するところ

共謀罪について条文案が明らかとなった直後に法務省が記事にある通り「犯罪を合意しただけでは、逮捕や家宅捜索はできない」との見解を出しました。これが何を意味するかは意外と大事なのではないかと思います。
捜査機関(警察や検察)が「捜査」活動が出来る場面については刑事訴訟法(下記では「刑訴法」と略します)に定めがあり、

刑訴法198条2項「司法警察職員は、犯罪があると思料するときは、犯人及び証拠を捜査するものとする。」

とされています。つまり、「犯罪がある」と捜査機関が考えた場合に「捜査」ができることになります。逆に言えば「犯罪が起こりそう」と捜査機関は考えるが「まだ起こっていない」段階では「捜査」はできません。
そして、国家が国民の身柄を捕まえる(=逮捕)、住居等に踏み込んで証拠を探す(捜索・差押え)は「捜査」活動としてのみ刑訴法で認められています(刑訴法199条等)。
まとめれば、「犯罪」が「既に起こった」場合しか警察等は、逮捕・捜索等を行うことができないことになります。
そして、犯罪とは「構成要件に該当し」違法で有責な行為を意味します。
ここで、共謀罪の政府原案では、

「・・・共謀した者は、その共謀をした者のいずれかによりその共謀に係る犯罪の実行に必要な準備その他の行為が行われた場合において、当該各号に定める刑に処する。」

とされているようです。
上記条文からは「共謀」しただけでは処罰されず、共謀された犯罪について「犯罪の実行に必要な準備その他の行為が行われた場合」にのみ処罰されることが読み取れます。
これを「構成要件」という視点から見ると、「共謀」は単体では犯罪ではなく、共謀された犯罪(本体となる犯罪)の実行に必要な「準備その他の行為」がなされた場合に、遡って共謀も「犯罪」として成立する、と読むのが素直です。
つまり、「準備行為等」は「共謀罪」の構成要件ということになります。
したがって、「共謀」が行われても準備行為がまだされていない段階(これを法務省は「犯罪を合意しただけでは」と表現します)では、(準備行為等という)構成要件が充足されていないので、犯罪としては成立しておらず、捜査機関は「捜査」することができない。したがって、逮捕も捜索もできない、ということになります。
法務省が「見解」として述べているのはこのことです。
ちなみに、「準備その他の行為」の「その他の行為」に何を含めるかにより、共謀が「犯罪」となる範囲がかなり拡大する可能性があることをどう考えるか等、上記条文や法務省見解によって共謀罪への懸念を払拭できるか否かにはそもそも諸論あり得ます。
更に、共謀罪の条文以前の問題にも頭に入れておくべきです。
それは、警察等は「捜査」だけをする機関ではなく、犯罪の「予防」のためにも活動する機関だ、ということです(犯罪捜査活動を「司法警察活動」、犯罪の予防・鎮圧活動を「行政警察活動」と言ったりします)。
行政警察活動については、警察官職務執行法(下記では「警職法」といいます)に定めがあり、

警職法2条1項「警察官は、異常な挙動その他周囲の事情から合理的に判断して何らかの犯罪を犯し、若しくは犯そうとしていると疑うに足りる相当な理由のある者又は既に行われた犯罪について、若しくは犯罪が行われようとしていることについて知つていると認められる者を停止させて質問することができる。」

とされています。この規定に基づいて、酔っ払って街をフラフラしていて「職務質問」を受けたり、夜に自動車検問が行われていたりする訳です。
共謀とは犯罪の合意である以上、本体犯罪の準備が未着手でも、共謀さえなされれば警職法2条にいう「犯罪を・・・犯そうとしている」と言えますので、警察官が共謀した者に対し、職務質問は当然にできることになります。
更に、あくまで「任意」であれば警察等は共謀をした者を警職法2条に基づき、警察署等に呼んで話を聞くこともできます。いわゆる「任意同行」です。
「任意」なのですから、断ることも出来ますが、我が国では「警察から呼ばれて行かないのはやましいことがあるからだ」という意識が強く、任意同行を断ると社会的非難すらあり得ますので、現実には「任意同行だから、市民の自由を制限しない」とは言いにくい面があります。
また、いわゆる通信傍受法は、

通信傍受法3条「検察官又は司法警察員は・・・犯罪・・・の実行、準備・・・相互連絡その他当該犯罪の実行に関連する事項を内容とする通信・・・が行われると疑うに足りる状況があり・・・」

と定めています。
共謀が行われれば、さらなる謀議のため電話等が行われると「疑うに足りる状況」が発生する場合もかなり多いと考えられます。したがって、やはり本体犯罪の準備が未着手でも、共謀があれば通信傍受が許容される場合も多いことになります。
つまり、警察等は、共謀(=犯罪の合意)だけで逮捕・捜索はできなくても、共謀罪を「取っ掛かり」に任意同行や通信傍受等様々な手段を用いることが可能ということになります。
法務省が「合意だけでは逮捕・捜索はできない」というのは、当たり前といえば当たり前の話です。そんな当たり前のことをわざわざ「法務省見解」として出さざるを得ないあたりに、政府の本音が垣間見えている気もします。
また、逮捕・捜索が出来ないからと言って、捜査機関が何もできないわけでなく、市民生活に影響が出ないわけでもありません。
共謀罪の是非についての議論は、上記のような他の法律の仕組みも前提にしながら、実際の運用イメージを描き、市民生活への影響を考え、テロ防止等にどの程度役立つのかを具体的に考えるものでなければならないと考えられます。
 
 

賄賂は申込んだだけで処罰される

鴻池元防災相が「無礼者!」と言って投げ返したのは、事実とすれば中々のパフォーマンスですが、それはともかく、この問題についての森友学園理事長の言い訳は、法的にはかなり興味深いものです。

政治資金規正法の枠外で政治家にお金を渡す場合に問題となるのは賄賂罪です。渡す方は贈賄罪、もらう方は収賄罪に問われます。
今回学園理事長は渡す方なので、贈賄罪が問題となります。
贈賄罪とは、

刑法第198条「第197条から第197条の4までに規定する賄賂を供与し、又はその申込み若しくは約束をした者は、三年以下の懲役又は二百五十万円以下の罰金に処する。」

と定められています。

収賄罪は種類が多いため、「197条から・・・」となっていますが、そこは度外視すると、まず問題になるのは「賄賂」とは何か?と言うことです。

賄賂とは、公務員の職務行為に対する対価としての不正な「報酬」をいいます。
判例は「報酬」について具体化して

「賄賂とは財物のみに限らず、又有形たると無形たるとを問わず、苟も人の需要もしくは欲望を充たすに足りるべき一切の利益を包含する」

としています。

「賄賂」というと現金や株式をイメージする人が多いのですが、上記の判例からは金融の利益はもちろん、芸者の花代等饗応接待、就職のあっせん約束、更には異性間の情交も「賄賂」にあたることになります。

当然、商品券は賄賂にあたります。
したがって、学園理事長の「事実無根、金銭ではなく商品券だ」という言い訳は、贈賄罪を否定することにはなりません。

次に、ここが一番誤解されがちですが、今回理事長は商品券入りの包を鴻池氏に渡したが「投げ返され」ています。すなわち、鴻池氏は賄賂を受け取らず、他方、理事長は賄賂を渡すことが出来ませんでした。

しかし、上記の刑法198条の条文文言には「賄賂の申し込み」と書いてあります。つまり、「受け取って下さい」と言ったり、包を「渡そうとした」だけで贈賄罪は成立します。
したがって、理事長の言い訳は贈賄罪の成立を否定することにはなりません。

もちろん、商品券より金銭を渡す方が悪質だ、申込みだけで断られたのなら、それほど非難すべきでない、として量刑を軽くする事情にはなるかもしれません。
しかし、贈賄罪自体は成立する以上、検察等が理事長を捜査すること自体には支障が無いと言えます。

そうすると理事長にとって検察等の捜査を避けるための主張としては、鴻池氏への商品券供与申し込みは「親族がお世話になったことへのお礼」であり、「公務員の職務行為に対する不正な報酬」の申し込みではなかった、ということしか残らないことになります。
したがって、今後はその点の主張を盛んに発信してくる可能性が高いと思われます。

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養子制度は誰のため?−「法律の趣旨」の割り切れなさ

法律の趣旨が法律の条文文言や条文構造により導かれることは、16/10/4の記事で少し書きました。

記事にある節税目的の養子利用は、その「法律の趣旨」がそう割り切れる問題ではないこと、そしてその割り切れなさの隙間に思いがけない目的が割り込んでくることがあることを、かなりえげつない形で表しています。

 

養子制度の目的については、戦前の旧民法と比較しながら考えるとわかりやすく、通説は大体次のように説明しています。

 

まず、戦前の民法は男子が家督を相続するという、家督制度を定め、推定家督相続人(普通は長男)である男子がいる戸主(一族の長)は男養子をとれないと規定していました(旧民法839条)。
つまり、家督を継ぐべき人がいる場合には、男養子ができないのですから、養子制度は家(の家督)が絶える危険を避けるために必要とされる制度、ということになります。
つまり「家」のために養子は認められるわけです。

 

他方で戦前の民法は、戸主でなければ(戸主になる前の推定家督相続人を含みます)、何人男養子をとってもよいとされ、また、婿養子(娘の配偶者)なら、何人でも男養子をとれると定めていました(旧民法839条但書)。
これは「家のための養子」の観点からは説明できず、子を育てたいという親の希望・家族共同体の労働力の増加・老後の親の面倒を見るためという「親のための養子」と、親のない子に親を与え、健全な育成を図るという「子のための養子」の両側面があると言われていました。

 

戦後、現行民法が定められ、家督制度が廃止され、男養子の制限も削除され、更に婿養子という概念も無くなったので、「家のための養子」と考えれれる条文は姿を消しました。

一方で、養親となるには成人であればよく(民法792条)、しかも養子より少しでも年長であればよいとされています(民法793条)。
「子のための養子」が趣旨であれば、親となるにふさわしい年齢や、親子と言えるにふさわしい年齢差を定めるはずです。
そのような規定がないのですから、現行民法での養子制度の趣旨は「子のための養子」と「親のための養子」のどちらか割り切れないものとなっています。

 

その割り切れなさの隙間に割り込んできたのが「節税目的」という目的です。
民法には税金への配慮と考えられる規定はありません。
他方、相続税法相続税基礎控除相続税を支払わなくて良い財産の額)について、3000万円+600万円×相続人の数と定めており(相続税法15条)、また、生命保険等の非課税枠も相続人の数に比例させています(相続税法12条1項5号)。
要するに、相続人が多い方が税金をより少なくできる訳です。これが節税目的の養子が蔓延る原因です。

 

節税目的は相続の場面ですから親は死んでおり「親のための養子」とは言いにくく、また、親のない子に親を与えることとも関係が薄く「子のための養子」とも言いにくい目的です。

しかし、相続税法はむしろ節税目的の養子を前提としており、上記の優遇が認められる養子の数を、実子がいる場合には1人、実子がいない場合には2人に制限する規定を置いています(同法15条等)。

 

そして、節税目的の養子は社会においてかなり広く行われています。
このような現実を前提に記事の最高裁判決の原審である東京高裁判決は「節税目的の養子には『養子縁組をする意思がない』」と判断しました。現実を見ない非常識な判決とも思えますが、養子の目的を「親のための養子」「子のための養子」とすると、理解できる判決です。

 

しかし、最高裁は記事にある通り、正面から節税目的の養子を認めました。
「法律の趣旨」の割り切れなさ、隙間に入ってくる他の趣旨等、考えさせられる判決です。

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知らなきゃ悪くない?ー故意の意味

英孝氏を擁護する理由を聞かれると(私を含む)多くの男が「明日は我が身」と思うからのような気がしますが、それはともかく、英孝氏の弁明や擁護論を法律的に構成すると、彼には「故意が無かった」ということになります。
そして、英孝氏や彼の擁護者を批判する人々は、(知らなかったはずはないとの批判以外では)「知ってようと知らなかろうと悪いことをしたんだろう」と批判しているのであり、犯罪に故意は必要ない、という見解に親和性があります。
刑罰という社会的非難が加えられる「犯罪」を正確に定義すると「①構成要件に該当し、②違法で、③有責な、行為」ということになります。」
今回の事件に引き直せば、①は17才の女性と情交関係を結んだことであり、②は正当防衛等の違法性を失わせる事情がないことを意味します。
そして、③が故意ということになります。
故意については、刑法に規定があり

刑法38条1項「罪を犯す意思がない行為は、罰しない。ただし、法律に特別の規定がある場合は、この限りでない。」

 とされています。

つまり、故意とは「罪を犯す意思」であり、我が国ではこれが無いと原則として犯罪は成立せず、罰されることはありません。なお、例外は過失犯処罰ということになります。
「罪を犯す意思」をもう少し実質的に定義すると、「犯罪事実の認識」ということになります。そして、犯罪事実とは①の構成要件該当事実を中心とする事実です。
このような意味での故意が犯罪成立に必要である理由は、①の構成要件にあたる「客観的に悪いこと」を認識していながら、敢えて行為をした・思いとどまらなかったことが、強い社会的非難にあたる、と考えられるからです。
さもないと、行為者は非難されるべきであるから処罰されるのではなく、単に運が悪かったから処罰される、ということになってしまいます。そうすると、国民が法を守ろう、犯罪を犯さないようにしよう、という遵法意識が段々低下していくことになり、健全な社会が維持できなくなります。
つまり、犯罪事実の認識が無い場合、自己の行為が「悪い」と認識できない訳ですから、その行為を思い止まろうという動機(=反対動機)が発生しないので、行為者に強い社会的非難をすることができないので、刑罰を課すべきではなく、犯罪は成立しない、ということになります。
今回の事件でも、相手の女性が17才(青少年)であるからこそ、情交関係を結ぶことが、青少年保護育成条例が刑事罰を課しているわけであり、相手の年齢が「17才」というのは犯罪事実そのものであり、故意の一内容です。
そして、英孝氏が相手が17才と知らなかったとすれば、情交関係を思い止まろう、という動機は発生しません。
そのため、彼に強力な社会的非難である刑罰を課すことはできないのです。
法律と一般常識は違います。淫行処罰されなくとも、一般常識からは彼の行為を非難することもあり得る考え方です。
しかし、現代ではネット上の常識とリアルの常識がかなり異なることから分かる通り、「何が一般常識か?」自体を考えることが極めて重要です。そうすると、改めて考えた一般常識からは彼を非難すべきでない、との考え方も成り立ち得ます(もちろん、改めて考えて、やはり彼は非難されるべき、との結論になる可能性もあります)
そして、一般常識の内容を考えるにあたって、我が国の法律の仕組みを思考の道具の1つとすることは、有益であり、思索が深まると思います。
 
 

そこに愛はあったの?ー「淫行」とされるSEXとは

個人的には17歳の女性から「23歳」と言われて、嘘を見抜く自信はありませんが、それはともかく、英孝氏の行為の何が問題か?は、それほど単純な話ではありません。

この問題を考えるにあたっては、我が国の法律が未成年者とのSEXについて、どのようなスタンスであるかを知る必要があります。

まず、(強姦等の犯罪を除けば)SEXと最も関係が深い法制度は間違いなく「婚姻」という民法上の制度だと思います。
民法は夫婦間の義務として貞操義務、すなわち配偶者以外とのSEXをしてはなならないという義務を定め(民法770条)、夫婦間に生まれた子どもには「嫡出子」という一種の身分を与える(民法772条)等、夫婦間でのSEXを前提とする権利・義務等を定めています。

そして、結婚は女性は16歳、男性は18歳になれば可能です(民法731条)。

親が未成年者である間は子どもを作ってはならないとの規定は無く、未成年者がSEXをすることがあることは民法は前提としています。更に、未成年者の結婚の相手が成年者であってはならないとの規定もないので、成年者と未成年者がSEXすることがあることも民法は前提としていると言えます。

ここで、「(少なくとも)未成年者の、又は未成年者とのSEXは結婚後に行うべき」との意見があり得ますが、民法789条は未婚の者同士の間に出来た子どもについて、両親が結婚すれば嫡出子の身分を取得すると定めており(準正といいます)、婚姻前にSEXをすることがあることも前提としています。そして準正について、成年者と未成年者を区別する規定はありません。

以上のことからは、我が国の法制度上最も基本的な法律の1つである民法上は未成年者がSEXをし得ることを前提としており、少なくとも未成年者とSEXをすることを非難するような価値観は採用していません。

英孝氏の行為が問題と言われているのは、いわゆる青少年保護育成条例の規定によるのですが、例えば東京都青少年の健全な育成に関する条例は、

(青少年に対する反倫理的な性交等の禁止)
第18条の6 何人も、青少年とみだらな性交又は性交類似行為を行つてはならない。

と定め、違反者に刑事罰を課しています。

これは単純に見ると、上記民法の原則と反するように見えますが、表題及び条文に「反倫理的」「みだらな」という文言があるのがポイントです。これは民法の原則に対して、①特定の目的・趣旨で、②目的等に必要な限度で、例外を定めたものと考えられます。

判例は、①淫行処罰の目的・趣旨について、

「一般に青少年が、その心身の未成熟や発育程度の不均衡から、精神的に未だ十分に安定していないため、性行為等によつて精神的な痛手を受け易く、また、その痛手からの回復が困難となりがちである等の事情にかんがみ、青少年の健全な育成を図るため、青少年を対象としてなされる性行為等のうち、その育成を阻害するおそれのあるものとして社会通念上非難を受けるべき性質のものを禁止することとしたものである」

 とします。つまり、青少年に悪い影響を与えるような形態のSEXから未成年者を守ることが目的であるとします。

そして、②上記のような悪いSEXから未成年者を守るために禁止すべき「淫行」の意味は、

「『淫行』とは、広く青少年に対する性行為一般をいうものと解すべきではなく、青少年を誘惑し、威迫し、欺罔し又は困惑させる等その心身の未成熟に乗じた不当な手段により行う性交又は性交類似行為のほか、青少年を単に自己の性的欲望を満足させるための対象として扱つているとしか認められないような性交又は性交類似制為をいうものと解するのが相当である。」

とします。

つまり、淫行処罰で罰せられる「みだらな性交」をSEX全般ではなく、不当手段によるものや自己の性欲を満足させるためだけのものに限っています。

どのようなSEXが上記判例に言う「淫行」にあたるかは、個々の事実関係によることになります。
しかし、少なくとも真摯な交際からのSEXが判例の言う「淫行」にあたらないことは明らかです。

これはつまるところ「そこに愛はあったの?」を問うこととある程度重なるのではないかと思われます。

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共謀罪について冷静で有益な議論をするために

共謀罪についての議論が喧しいのですが、「喫茶店で話すだけで捕まるvs条約上制定義務がある」というような荒っぽい対立軸が強調されています。

共謀罪の是非を考えるためには、

「現行法上『共謀』はどの範囲で罰せられるか?」を押さえて、
「現状に加えて新たにどのような範囲を罰するのか?」
を考えないと、現実的な思考ができません。
というのも、「共謀」は現行法でもそれなりに罰せられているからです。

H28/11/1の記事にも書いた通り、「犯罪の実行行為を分担をしていないけれども、犯罪の実現に重要な役割を果たした者」は、「『共謀』共同正犯」として罰せられます。
この「共謀」については、
「(暴力団組長等)上位者が下位者に命令する」、
「対等な者同士で犯行計画を練る」
等は語感から想像しやすいと思います。

しかし、現実には上記のような典型的なパターンだけではなく、
AとBが犯行を計画して、BがAには知らせず実行をCに命令した場合にAも共謀共同正犯になる(順次共謀)、
DがYを殴っている現場に、Fが出食わし、その場でDとYから金を強奪しようという話になり、2人でYを殴って金を強奪した場合にDとFが共謀共同正犯になる(現場共謀)
等のパターンも共謀共同正犯として罰せられます。

更に、「黙示の共謀」も認められています。黙示の共謀とは、例えば、
暴力団組長は一切指示も示唆もしていないが、下位の組員が組長の移動に拳銃を所持してボディーガードしていた」という場合に、「組長の立場を考えれば、実質的に組長が組員に拳銃を所持させていたと評価できる」として組長と組員を共謀共同正犯として罰する、という考え方です。
ここでは、「話す」という要素すら不要とされています。

また、正犯とまでは評価できなくても、「他人をそそのかして犯罪実行の決意を生じさせて、その決意に基いて犯罪を実行させた」という関係にあれば「教唆犯」として正犯と同じ刑が科されます(刑法61条1項)(教唆犯を教唆すること(教唆犯の教唆犯を教唆すること・・・)も同じく教唆犯になります(同条2項))。
「そそのかす」とは通常「話す」ことで行われるのであり、それは「喫茶店で話す」という形態を含むことになります

更に、「そそのかす」(=犯意を発生させた)とまで言えなくても、「既に犯人に生じていた犯意を強化し、犯罪遂行を容易にした」と言えれば、「幇助犯」として、罰せられます(刑は軽減されます、刑法62条)。
古い判例には、「男はやるときはやらねばならぬ」などと激励して殺人の決意を強固にした者が幇助犯とされたものがあります。
当然、上記セリフが喫茶店で言われても幇助犯となり得る訳です。

以上のように、現行法でも一般用語としての「共謀」はそれなりに広い範囲で罰せられています。
共謀罪を創設する、ということは上記を超えた更に広い範囲で「共謀」を罰することを意味します。
この点、「もともと結構広い範囲で罰せられるから、多少拡張されても問題ない」と考えるか、「更に広範囲に罰せられると市民生活が圧迫される」と考えるかは諸論あると思います。

しかし、現状と共謀罪制定後を比較しなければ、共謀罪が実際に私たちに暮らしにどのように関わるかがわからず、冷静で有益な議論ができません。そのために、現行法を知るというのは1つの有力な道具となると考えられます。

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租税回避と課税当局の戦い

ロナウドらサッカーのスター選手が租税回避をしているとの報道が続いています。

10/26の記事にも書いた通り、租税回避は租税公平主義(等しき者には等しく課税・異なる者には異なる課税)と租税法律主義(租税を課すには事前に明確な法律で定める)が両立しない事態であり、イタチごっこのように個別に対処する法律を作って対処する必要があります。課税当局はかかる個別立法を待って課税していくのが基本です。

しかし、課税当局とは、個別立法を待つことに徹するほど甘い機関ではなく、様々な手法で立法によらずに租税回避に対処しようとします。そのような手法の1つが「法律問題を事実認定の領域に引き直す」ことによる対処です。

具体例で説明したほうがわかりやすいので、租税回避スキームをまず紹介します。
デベロッパーA社は、不動産賃貸業者B社所有の土地α(時価1億円)をマンション建設のためにどうしても取得する必要があったので、B社に同じく時価1億円の土地βを提供した上、土地αの賃貸ができなくなることの補償として現金3000万円を支払う、との条件で土地αの取得をB社に持ちかけ、B社は承諾しました。
ここでB社は土地αを昔1000万円で取得していたとします(これを取得費といいます)。

上の取引=Aの申出を「素直に」見れば、AとBは
①土地αと土地βを交換した上、
②AはBに3000万円の現金を支払った、
ということになります。
したがって、Bの収入は
土地β+3000万円=1億3000万円
となり、譲渡所得は、
収入−取得費=1億3000万円−1000万円=1億2000万円
になります。
そして税額は、
(1億2000万円−50万円)×20.315%≒2427万円
になります。
言い換えれば、「交換契約+プレミアム構成」であり、対価のバランスが取れた交換に、Bに土地を売ってもらうためのプレミアム3000万円をプラスした、という現実の取引実態通りの法律関係とそれに基づく課税となっています。そのため、これが通常の納税の姿ということになります

しかしBは税務申告のことを考えて上記取引を、
①BがAに土地αを1億円で売却し、
②AがBに土地βを7000万円で売却し、
③①と②の代金のうち7000万円を相殺し、
④差額の3000万円を現金でAがBに現金で支払って精算した、
という法形式を「選択した」ことにしし、Aとも示し合わせてそのような契約書を作成します。
言い換えれば、売買契約構成です。

そうするとBは
1億円で土地αを売却し、代金を土地βと現金3000万円で受け取った
ことになります。
したがって、譲渡所得における収入金額は1億円となり、
譲渡所得は、
収入−取得価格=1億円−1000万円=9000万円
となります。したがって、税額は
(9000万円ー50万円)×20.315%≒1818万円
になります。

つまり、通常の納税の姿より約600万円も税額が少なくなります。

課税当局としては、売買契約構成は「売買」と言いながら、②において、時価1億円であるはずの土地βを7000万円としており、売買の本質である「対価のバランス」が取れていない異常な取引であり、税負担の軽減目的以外に経済合理性が無い、租税回避行為と考えました。
ですから、何とか課税したいと考えます。

ここで、売買契約構成について
「売買契約ではあるが、実質的には交換契約+プレミアム取引なので、実質に則して収入を1億3000万円として課税する」
と言ってしまうと、所得税法には「売買契約を交換契約とみなしてよい」という規定は存在しませんので、租税法律主義に反してしまいます。したがって、このような実質論での課税はできません。

そこで、課税当局は知恵を絞ります。
実質論の課税が租税法律主義に反するのは、「売買契約である」という事実があるからです。逆に言えば「売買契約ではない」「交換契約であった」という事実があれば、交換契約に基づく課税をすることに何の問題もありません。

そして、課税の基礎となる事実(法律関係)は「仮装」(端的には嘘)であってはならず、「真実の事実(法律関係)」でなければなりません。上記売買契約構成においてA社は、土地βを時価より3000万円も低い価格で「売却」しています。A社が営利企業である以上、これは不合理極まりない行為です。
このことは結局のところ、上記取引では代金額はどうでもよく、Bに代替土地+現金3000万円が移転すればよい、とAもBも考えていたと「事実認定」できます。
そして、売買契約においては代金の額は本質的要素とされています(法律家がよく口にする「要件事実」の考え方です)。したがって、上記取引のように当事者双方が代金額に何の意味もないと考えている取引は、売買ではなく交換(+プレミアム)である、と「事実認定」した上で、「真実の事実(法律関係)」である交換契約に基づいて、課税する、ということにします。

これは租税「法律」主義があくまで「法律」問題(事実そのものでなく、事実の持つ「性質」の問題)を扱っていることから、そこでは勝負をせず、法律にあてはめる「事実」問題(性質の前提となる事実そのもの)で勝負をすることで、租税法律主義に反しない形で租税回避行為に対処しようとしたものです。言い換えれば、租税法律主義の縛りのある法律問題を、縛りがない事実認定の領域に引き直すという、非常に巧みな手法であり、これを認める地裁判決が出たこともあり、一時期課税当局が多用して一世を風靡しました。

しかし、後に高裁が上記のような手法を否定する判決を出します。

①当事者双方が「売買だ」と言っており、売買契約書もあるのに、「売買は仮装(=嘘)だ、売買という事実は存在しない」と認定するのは困難であり、「合理性がない」「税負担の軽減が目的だ」だけでは理由とならない、
②税負担軽減目的は通常の経済合理性のある目的である、
③当事者が選択した法形式を他の法形式に引き直すのは租税法律主義に反する、
等が理由です。

その後、法律問題を事実認定の問題に引き直す手法は下火になりました。
しかし、この手法が登場した一連の流れは、課税当局が必死で租税回避に対処しようとしている姿勢を如実に表しています。この問題について課税当局が諦めることは未来永劫無いと考えられます。
したがって、租税回避をしたい者(主に富裕層)と課税当局は、上記のように国内でも、記事のように国際関係においても、今後も熾烈に戦い続けることになります。

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