弁護士由井照彦のブログ

法律の視点からの社会・事件やリーガルリサーチについて

にほんブログ村 政治ブログ 法律・法学・司法へ

どこで思いとどまるか−予備→未遂→既遂の流れの中で

記事の郵便局員は相当な胆力ですが、それはともかく、記事のように犯罪を「思いとどまる」ことを我が国の刑法が重視していること、そしてそのための仕掛けを知っておくことは、今後も次々に起こる新手の犯罪やそれを罰する新法の是非を考えるにあたってとても有益です。

犯罪というのは他の人の利益を不当に侵害する行為なので、なるべく侵害結果が生じないに越したことはありません。

そして、「犯罪を犯す」と言っても、瞬時に犯罪が完成するわけではなく、逡巡→決意→準備→決行等と段階を踏んで実現していくものです。

また、一度犯罪の流れの中に自分が踏み出したとしても、それを「途中でやめる」ということは、自分にとっても利益を侵害される他の人や社会にとってもとても有益なことです。

したがって、「侵害結果が実現しなかった」ことや「途中でやめた」ということに対しては法的にもプラスの効果を与えるべきだ、と言えます。

他方で、ある人を殺そうと拳銃を調達し、狙いをつけ、引き金を引きそうなところで警官に見つかって制止された、というような場合に全く罰さない=何の犯罪も成立しない、とするのは到底正義に合致しません。

刑法にははその点を調整する仕掛けが用意されており、その仕掛けを記事の強盗を例に説明します。

強盗についての基本規定は、

刑法236条1項「暴行又は脅迫を用いて他人の財物を強取した者は、強盗の罪とし、五年以上の有期懲役に処する。」

です。暴行をして、相手が持っている財物を奪い取る(強取する)、というのが典型です。

規定を見ると分かる通り、①暴行脅迫を行なって、②財物を奪い取った、場合に強盗(既遂)罪が成立します。

ここで、

ⅰ)暴行したけど金を奪えないまま逃げた、

ⅱ)暴行しようとナイフを持っていったが、出す前に警官に見つかって連行された、

というような場合はⅰ)であれば財物は奪われていませんし、ⅱ)であれば暴行すら存在しません。

したがって、強盗既遂よりはⅰ)は利益が害されておらず、ⅱ)はもっと侵害結果が発生していません。

こういう場合に刑を軽減するのが未遂と予備という制度であり、

刑法43条「犯罪の実行に着手してこれを遂げなかった者は、その刑を減軽することができる・・・」

刑法243条「第二百三十五条から第二百三十六条まで及び第二百三十八条から第二百四十一条までの罪の未遂は、罰する。」

 

という条文により、強盗は「暴行をはじめたけど、財物は奪わなかった」という場合について、罰される一方で「軽減することができる」とされます。

「できる」ですので、軽減しなくてもよいわけですが、それは未遂と言っても様々で刑を軽減するのが不適切な場合もあるからです。実はこの「任意的軽減」がポイントです。

更に、

刑法237条「強盗の罪を犯す目的で、その予備をした者は、二年以下の懲役に処する。」

とされており、ナイフは用意したけど暴行・脅迫前につかまった、というような場合には既遂よりかなり軽い刑が定められています(5年以下ではなく2年以下)。

これは利益の侵害がほとんど無いので刑を「必要的に軽減」していると言えます。

さて、未遂の中でも特に軽くした方がいい場合があります。冒頭にも書いた通り「犯人が自分で犯行を途中で思いとどまった」という場合です。この場合を普通の未遂として刑の任意的軽減に止めると、「犯罪をはじめちゃったから最後までやり抜こう」等というアホな考えを助長しかねません。

そのため未遂を定めた上記の刑法43条はそのただし書で

刑法43条「…ただし、自己の意思により犯罪を中止したときは、その刑を減軽し、又は免除する。」

と定め、自分で犯行を途中で思いととどまった場合には、刑を「必要的」に軽減し、免除の可能性すら残しています。

上記のように刑法は犯罪がはじまっても、その途中での不成功や犯人自身が思いとどまることをプラスに評価しています。

これは刑法が「犯罪が起きた→罰しよう!」というような単純な思考回路ではなく、なるべく不利益な結果を発生させないようにという目的をもっていることを示しています。

新手の犯罪が起きると、「罰すべき」との意見が起こるのは当然ですが、それを単に「重く罰そう!」という考えに結びつけてしまうのは、犯罪結果・不利益をなるべく減らそうという視点が欠落しています。上記のような刑法の仕組みを、適切な罰則を考えていくことが必要と思われます。

headlines.yahoo.co.jp

不正合格の後始末-法律による行政の悩ましさ

 記事の山梨市長の件は、元妻が山梨県警ではなく、警視庁に逮捕されて、その後やはり警視庁が市長本人を不正採用の件で逮捕していることからは、そもそも贈収賄事件を目標として警視庁が捜査していたようにも思われますが、それはともかく、不正合格させてもらった市職員を今後どうするのか?は法的には意外と深い問題です。

つまり、「お前は本来点数足りて無かったんだから、クビだ❗」と言えるのか?ということです。

市職員の採用は「任用」という行政処分の1つです。逆にクビにすることは解雇ではなく「免職」という行政処分です。ただ、「免職」については、どのような理由があれば免職処分が出来るのかが地方公務員法で定められており、その中に「実は採用試験の点が足りなかった」場合に適用できる理由はありません。 したがって、今回問題となっている不正合格者については、免職処分ができません。

そのため、クビにするとすれば、「採用(任用)処分を取り消す」ということになります。 しかし、地方公務員法には「任用処分取消し」を直接に定めた規定が無いため、そんなことができるのか?してもいいのか?が法的に問題となる訳です。

行政というのは、その定義が「国家作用から立法作用と司法作用を除いたもの」とされているくらい、幅広い領域で活動します。そのため、放置するとドンドン暴走する可能性を含んでいて、行政は公的権力そのものですから、暴走した場合に国民・市民の利益が害される程度は非常に高くなります。 この暴走を防ぐために、行政が絶対に従わなければならないとされている大原則が「法律による行政の原理」です。つまり、

「行政活動は、法律に基づき、法律に従って行われなければならない」

とされているのです。

これは中学校で習う三権分立の「国会は法律を作り、行政はそれを執行する」というフレーズからも理解しやすいと思います。

この「法律による行政の原理」が我が国の行政の大原則です。 しかし、問題はそこでは終わりません。先ほど書いた通り、行政は様々な領域で活動しており、また、災害対策など即時に対応しなければならない場合も多く、一々法律が作られるのを要望したり、待ったりするのは現実的ではありません。 そのため、法律による行政の原理が強く働く場面は限定される、と考えられています。法律による行政の原理は行政の暴走による国民・市民の利益が害される=侵害されるから必要とされる原理なので、それを強く働かせなければならないのは

「個人の権利を制約し、義務を課すような侵害行政」

についてだと考えられています。侵害行政については法律の根拠が必要である、という原則を「侵害留保原理」といいます。 ここで注意しなければならないのは、「侵害留保原理」は「法律による行政の原理」の内容の1つに過ぎない、ということです。つまり、法律による行政の原理の方が内容が多く、かつ、より大事で重視しなければならない、ということです。

さて、今回、不正に採用試験に合格し、市職員として働いている人に対して、「任用取消し処分」をするということは、その人から職を取り上げ、生活の糧を得る術を失わせるのですから、「個人の権利を制限する」場合に当たるように思えます。 そうすると、侵害留保原理からは、任用取消しについて、どのようなときにそれができるのかを法律で定めておかなければならない、と言うことになりそうです。

しかし、地方公務員法にはそのような規定はありません。では、任用処分取消しは出来ないのか?というともう少し深く考える必要があります。 つまり、行政の大原則は「法律による行政の原理」です。そして、任用処分は、それに先行する採用試験に合格しなければなりません。試験については地方公務員法に規定があります。 今回、不正合格していた人は、法律上、本来合格していないのに、「合格した」とされていたのですから、これは「違法状態」に他なりません。

「法律による行政の原理」なのですから、違法状態は是正しなければなりません。是正することこそが「法律による行政の原理」の要請です。 そうすると、合格→任用処分を取り消すことは法律による行政の原理からは当然できる、とするのが同原理に忠実です。 したがって、任用処分取消しの規定が無くとも、(新しい)市長は不正合格者に対して、任用取消し処分ができる、ということになります。

しかし、問題は更に続きます。 理屈では上記の通り、任用取消し処分は出来ますが、それを形式的に貫き、どんな事情があっても、取り消される者の利益をどこまでも奪って良いのか?は大きな問題として残るのです。 例えば、

その人は不正があったとは知らず(親がそっと賄賂をしていた等)、

奉職後必死に働き、

行政でしか使われない技能を身につけ(逆に言えば民間で活かせる技能を身につける機会が無く)、

長期間働いて、

最近、ローンを組んでバリアフリー住宅を建てて、家で老親を介護している、

というような人を、何年も前の採用試験の瑕疵を理由に機械的に任用取消し処分をすることが正義に資するとは言えない場合もあります。 したがって、形式的には任用取消しができますが、その取消権行使が制限される場合も当然あると考えることになります。

実際には、任用取消により得られる利益と、これによって影響を受ける取り消される側の不利益とを比較考量するという、非常に難しい判断が要求されることになります。。

sp.yomiuri.co.jp

一線超えたら何がまずいか?−不倫と貞操義務

今井氏のネタで「2人で同室お泊りすれば一線を超えたも同然」「あの手のつなぎ方は一線を超えている」とかいうある意味童貞臭のする議論は実は法律的にも興味深くはあります。
不倫でまずもって問題となるのは、不倫相手と男女の体の関係があったか?ということになります。いわゆる婚姻している者の貞操義務の問題となるのですが、民法の規定では実は貞操義務を直接定めているわけではなく、

民法770条1項「夫婦の一方は、次に掲げる場合に限り、離婚の訴えを提起することができる。

一  配偶者に不貞な行為があったとき。(2号以下略)」

 ということになっています。

少しわかりにくいのですが、配偶者に不貞行為があれば訴訟を提起できるだけでなく、不貞行為があれば裁判上離婚が認められる、ことを意味する条文です。
つまり、不貞行為をしたら、相手方から強制的に離婚されるわけで、逆に言えば夫婦関係=婚姻関係にある者は「不貞行為を行わない義務」=「貞操義務」をお互い負っている、ということになります。
この規定は、不貞行為を行えば必ず相手からの離婚が認められる、という重大な効果を導くため、各条文文言は厳密に解釈されています。そのため、「不貞行為」とは「男女の体の関係そのもの」と解釈されています。
そういう意味で冒頭に挙げた議論の法的意味は2つに分かれます。
まず第1に「2人の体の関係を推測させる事実」というのがあります。そういう現場を写真や映像に撮るというのは、なかなか無いため、裁判では周辺の事実(間接事実と言います)から推測する(推認するといいます)しかないのが通常です。
上の議論では、「2人でホテルで同じ部屋に泊まれば一線超えたんだ」という意見は、要するに「2人で同宿すれば体の関係があったと強く推測される」と言っているのであり、つまり民法770条1項1号の事実があったのだ!という話です。
第2に、上記議論で言う「あの手のつなぎ方は一線を超えている!」というのをどう考えるか、という問題があります。
「あんな手のつなぎ方をしているということは、不貞行為の存在が推測される!」というのはさすがに無茶な論理です。
また、不貞行為の一歩手前の行為(口とか手で?)をしていたが、ホテルに行った証拠は何もなく、不貞行為のの存在までは推測できない、という場合もあります。
更に、少し前に話題になった国会議員のように、愛人と結婚式を上げたが、不貞行為の証拠はない、という場合もあります。
しかし、そんなような事実は配偶者にとって耐え難いことも多いわけで、不貞行為が無いからと言って離婚が認められないのは不条理とも言えます。そういう場合を拾うのが上にあげた民法770条1項の第5号で、

民法770条1項5号「五  その他婚姻を継続し難い重大な事由があるとき。」

 と規定されています。

そういう関係が無くとも、婚姻を継続し難い重大な事情があった、とされれば離婚は認められるわけです。
条文を比較すれば明らかな通り、1号が定める「不貞な行為」に比べ5号の「重大な事情」というのは、何がそれにあたるか曖昧で切れ味が悪いのは否めません。
他方、曖昧で切れ味が悪いからこそ色んな事情を考慮できることになります。
実際の離婚調停・離婚訴訟の場では、不貞行為の存在の証拠、不貞行為の存在を立証できないとして、他に婚姻関係が継続し難い重大な事情があるか、等を離婚条件と共に争っていくということになります。
ちなみに弁護士として働いていると「不倫はしない方がいい」というのが率直な感想です。

富裕層が海外逃避?−もう1つの出国税

記事にある観光庁長官が検討している「出国税」は一般人向けに構想されているものです。この新税の是非を議論するにあたっては、従来からある「もう1つの出国税」との違いを意識することは有益です(ちなみに、出国税については何回かに分けて説明するつもりです)。

「もう1つの出国税」とは、国外転出時課税制度と呼ばれるものです。

有価証券の代表格である上場株式は、日々その価格が上下します。買ったときより市場価格が上がれば、その人は値上がり分資産が増えることになります。これは経済的価値の流入ですので、その人に「所得」が発生した、と言えます。一般用語で言う値上がり益=キャピタルゲインは所得の1つということになります。

所得が発生している以上、キャピタルゲインには所得税を課税すべきです。しかし、キャピタルゲインは所得と言っても、株式を売っていない以上、その人に現金が入るわけではないので、納税資金がありません。これを国の立場から見れば「徴税が技術的に困難」ということになります。

ここで注意しなければならないのは「現金が入らないから、そもそも税は発生しない」という発想を我が国の税法はとっていないことです。所得は発生しており、本来は納税しなければならないが、徴税技術上の問題から、課税していないに過ぎないということです。

では、どうやって課税するかというと、

所得税法33条1項「譲渡所得とは・・・による所得をいう。」
同条3項「譲渡所得の金額は、・・・総収入金額から当該所得の基因となつた資産の取得費・・・を控除・・・した金額とする。」

つまり、資産を「売った時」に、
売却金額−買った際の価格
を所得として、これに税率をかける訳です。

これは日々上下する価格をその有価証券保有者が保有している間は課税せず、売った場合にその時点での値上がり分に対して課税する、ということです。

ここで立ちはだかるのが以下の規定です、

所得税法5条1項「居住者は、この法律により、所得税を納める義務がある。」

これは、我が国の「居住者」に対してしか、我が国は課税できないのが原則であることを規定しています。

そうすると、当然、「株式等を売ったときに我が国の居住者でなければいいじゃないか!」と考える人が出てきます。当然、富裕層が中心です。

つまり、有価証券を多額(現行規定では1億円以上)持っていて、かつ、それが買ったときよりかなり値上がりしている=キャピタルゲインが発生している人が、売る前にキャピタルゲイン課税の無い国・地域(香港など)に移住して、そこで株式を売却して、納税を免れようとするのです。

海外に移住することは違法である訳がなく、日本で買った株式を海外で売っても違法ではないので、この行為は当然適法です。

しかし、課税当局から見れば、これは適法行為の選択可能性を乱用して、不当に課税を逃れている=租税回避行為そのものです。しかも、こういうことをする富裕層がかなりの数存在し、どんどん増加していっていました。これを放置すると、他の納税者との不公平が甚だしく生じてしまいます。

この事態に対処するために2015年に導入されたのが、冒頭に書いた国外転出時課税制度(もう1つの出国税)であり、代表的な規定である所得税法60条の2は、

所得税法60条の2「国外転出・・・をする居住者が、その国外転出の時において有価証券・・・を有する場合には、その者の・・・譲渡所得の金額・・・の計算については、その国外転出の時に、・・・当該有価証券等の譲渡があつたものとみなす。」

と規定して、海外出国時に有価証券を所有する者にキャピタルゲインが発生している場合には、売っていなくとも、出国時の値上がり益に課税して徴収することにしたわけです。

上に書いた通り、キャピタルゲインも所得ですから、課税すること自体は何の問題もなく、徴税技術上の問題を「みなし譲渡」という手法でクリアしたということです。
これにより移住前に生じたキャピタルゲインに課税されてしまうので、富裕層が海外移住して課税を逃れるメリットがかなり小さくなります。つまり、「税の公平性が保たれた」状態になったということです。これは、以前に書いた「課税当局と租税回避行為(をする人)との闘い」又は「イタチごっこ」の一環であったと言えます。

www.travelvision.jp

法律と歴史・社会−戸籍についてあえて触れなかったこと

前回、我が国の戸籍という書類の特殊性と戸籍制度の長い長い歴史について説明し、我が国の法制度を前提にすると戸籍の公開には極めて抑制的であるべきことを指摘しました。

気づいた方も多いと思いますがその際に1つ敢えて触れなかったことがあります。もちろん、いわゆる被差別部落問題と戸籍の関わりです。

触れなかった理由は、被差別部落問題と戸籍との関係は少なくとも「法制度上の」つながりが無いからです。
しかし、法律や制度というのは我が国の歴史や社会的な実態とは不可分なものです。しかも、記事のように国会議員(それも与党議員)がこの問題について「ルーツや差別の話なんて誰もしていない」と言い切ってしまう現状を考えると、やはり説明しておくべき問題かなと思いました。

戸籍法は、

戸籍法6条「戸籍は、市町村の区域内に本籍を定める一の夫婦及びこれと氏を同じくする子ごとに、これを編製する・・・」

と規定しており、これが本籍についての基本規定です。

この条文からは①本籍とは特定の市町村の区域内であること、及び②戸籍は本籍地で核家族毎に編纂されることがわかります。

①については、本籍とはいわば戸籍の管理地を定める機能があることになります。逆に言えば、本籍地は日本国内であればどこでもよく、実際に「千代田区千代田1−1」つまり皇居に本籍を置いている人・家族は結構な数います。

一方で、②は子は通常結婚までは父母と本籍が同じであることを意味します。これにⅰ)結婚とは「家」と「家」がするものであるとの意識、ⅱ)祖先が住んでいた土地への愛着、等の様々な意識が絡まり合い、多くの人が婚姻にあたって、夫の従前の本籍地を夫婦の本籍地にする、いわゆる「入婿」の場合には、婿入りを受けた側の女性=家の本籍地を夫婦の本籍地とするという慣習又は社会的実態が存在します。

そのため、戸籍の本籍地欄を見れば、その人の祖先の土地的な出自が事実上わかってしまう、という実態があります。

そして、江戸時代以来の根強い部落差別意識の下、江戸時代の被差別部落が現在の町名・字ではどこか?という情報が我が国には昔から流通しています。ネットのない時代はそれが記載された本(公刊していない本)を売り歩く業者がいました(現在もいると思います)。現在はネット上にすらかかる情報が上がっています。

もちろん部落差別には何の理由もなく、不合理な差別であることは明白です。
他方で「部落差別には理由がないから、本籍地が知られても堂々としていればよい」というのはそれこそ非常に長い歴史のある部落差別の根強さ、現在なお被差別部落情報が流通しているという我が国の実情を甘く見ているとしかいいようがない、机上の空論です。
また、「嫌なら本籍を変えれば良い」というのは、上記のように本籍を自己の先祖が住んでいた土地の愛着から選んでいる人に「不合理な差別」を理由にその愛着を捨て去れ、と言っているようなものであり、戸籍制度を維持し、その中に本籍地の記載を求める我が国の法制度と全く整合しません。

繰り返しますが、我が国の戸籍制度は創設以来135年以上経っている、歴史の長い制度です。歴史が長いということは、制度の目的や趣旨とは本来は関係のない様々な「しがらみ」がまとわり付いているということです。
歴史が長い戸籍制度を維持するということは、このような「しがらみ」を直視するということです。
直視した上で、「戸籍の公開を要求すること」が、たとえ政治家に対してであっても、我が国の歴史や法制度と適合するのか?を慎重に検討する必要があります.

 

 

http://www.sankei.com/politi…/…/170716/plt1707160017-n1.html

戸籍は大事−蓮舫氏の二重戸籍問題から考える

16/9/15の記事で説明した通り、我が国の公職選挙法国会議員の被選挙権について

公選法10条「日本国民は・・・被選挙権を有する」

と規定し、
これは外交官になる要件を定める外務公務員法が

外務公務員法7条「・・・国籍を有しない者又は外国の国籍を有する者は、外務公務員となることができない。」

と定めるのと比較すれば明らかな通り、二重国籍者の被選挙権を許容しています。
すなわち、「仮に」蓮舫氏が国会議員になるに際し、二重国籍であったとしても法的には問題ありません。

そこで蓮舫氏を攻撃するために持ち出す論理は「政治責任」ということになります。

政治責任」とは色んな意味があり、逆に言えばしっかりとした内容を持つ言葉ではありません。
しかし、「国会議員になろうとするのであれば、自己が我が国以外に何らかのつながり・コミットメントを有している場合には、少なくともそれを表明した上で有権者の判断(選挙)を仰ぐべきだ」という主張には一定の説得力があり、少なくともあり得る見解です。

しかし、仮に上記見解を支持したとして、蓮舫氏に戸籍の公開を求めるのが妥当か?については異論があり得ます。
それは我が国の戸籍というものの特殊性への配慮です。

我が国では、

憲法13条「すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。」

との規定を根拠にいわゆる「プライバシー権」が認められています。現在声高に言われる「個人情報保護」もこの流れです。

我が国の戸籍は国民の出生から死亡までの「血の繋がり」「婚姻」「養子」などの身分関係が全て記載された書類です。
また、戸籍制度は明治5年以来135年以上続いており、人の出自に関する情報が非常に長期間に渡って蓄積されています。
更に基本的には「家」を基本として編成されているため、今回で言えば、蓮舫氏の戸籍には、蓮舫氏の配偶者と子どもについても身分関係・血筋等が記載されていることになります。

また、ある戸籍を見ることができれば、「本籍」等を頼りに先祖を遡ったり、他の親戚を辿ったりすることが出来ます。もちろん、これは弁護士等が裁判等に必要な限りでしか許されていませんが、残念ながら弁護士を買収する等して違法に戸籍を入手する事例が散見されます。

すなわち、戸籍というのはプライバシーの塊のような書面である上、本人以外についての記載があり、しかも(違法な手段を使えば)先祖・親戚を辿ることが可能となるものです。

このような特殊な書類を特定の目的のために特定の個人・機関に提出するのはともかく、「公開する」「公開を要求する」ことには非常に抑制的でなければなりません。

前述の通り、二重国籍者が国会議員になることは公選法上許容されています。これは国権の最高機関である国会がそのように判断している、ということです。
また、戸籍制度は我が国の伝統と言ってもいいほどに長期間維持・運用されている法制度です。
そうであるにもかかわらず、「政治責任」という曖昧な言葉の下、戸籍の公開を求める、ということが果たして我が国の法制度・政治制度と整合するかについては、慎重な検討が必要と思われます。

www.sankei.com

入れ墨はアート?−違法と違憲

我が国の法は、まず、頂点に「憲法」があり、その憲法によって立法権を与えられた国会が「法律」を制定する、という構造です。そして法律が憲法に反するかどうかを判断するのが裁判所です。

ここまでは、中学校等でも習うのですが、法律と憲法が具体的にどのように絡み合って問題になるはわかりにくいと思います。この点を記事にある「入れ墨はアートだ!」という事件に則して説明します。

まず、問題となっている「法律」は医師法であり、

医師法17条「医師でなければ、医業をなしてはならない。」

と定められています。
そして、

医業とは、当該行為を行うに当たり、医師の医学的判断及び技術をもってするのでなければ人体に危害を及ぼし、又は危害を及ぼすおそれのある行為(医行為)を、反復継続する意思をもって行うこと

と考えられています。

入れ墨との関係で問題になるのは「医師の医学的判断及び技術・・・でなければ人体に危害を及ぼすおそれがある」かどうかです。
記事の彫師の第1の主張は「入れ墨を彫ることは医師でなくとも危険ではない」ということです。
入れ墨を彫るのが人体に危害を及ぼすおそれが無いのであれば、「医業」にはあたらないことになります。そうすると彫師は医師法違反ではなく、無罪判決となります。この判決を出すのに憲法を持ち出す必要はないため、これは違憲判決ではあり得ません。

無罪判決が出れば彫師は満足であり、憲法の問題を持ち出す必要も場面もありません。
訴追する検察官は有罪判決であれば満足であり、やはり憲法を持ち出す必要も場面もありません。無罪判決であっても検察官としては控訴審で「入れ墨を彫ることは医業にあたる」という医師法という「法律」の解釈を主張するだけで、憲法を持ち出す必要も場面もやはりありません。

つまり、ここではあくまでも「法律」の解釈が問題となっており、憲法の出る幕ではありません。

問題は「入れ墨を彫ることは医業にあたる」という判断がなされる場合、または、そのような判断が予想される場合です。
この場合、彫った彫師は医師法に違反するので、有罪になります。つまり、被告人である彫師は別の理屈を考えなければなりません。

法律の解釈として入れ墨を彫ることが医業にあたるとされてしまう以上、彫師が無罪になるための理屈は「医師法17条は無効である」ということになります。
そして、冒頭で書いた通り法律は国会で制定されたものなので、それを無効にする理屈は「医師法17条は憲法に反する。したがって、無効である」ということになります。

それが記事で彫師の弁護人が言っている
「彫師に医師免許を要求することは、憲法で保障された表現の自由職業選択の自由、タトゥーを入れたい人の自己決定権を侵害する」
という主張になります。

この主張を表現の自由について見てみると、憲法

憲法21条1項「集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。」

と規定しており、記事でも彫師は
「入れ墨はアート=表現だから、それを彫師に医師免許を要求することで制限するのは、表現の自由の保障=憲法21条に反する」
と主張しているわけです。

この主張が仮に裁判所が正しいと考えると、その判決は「医師法17条は憲法21条に反するから無効である。したがって、被告人(彫師)は法律に反していないことになり、無罪」という内容になります。
ここでは憲法を理由に国会が定めた法律を裁判所が無効と判断しており、憲法問題が前面に出ています。つまり、違憲判決、ということになります。

このようなタイプの違憲判決を「法令違憲」と言いますが(他に「適用違憲」というタイプが有りますが、それは別の機会に。)、国会(議員)は「通常」、憲法に反しないように法律を定めているはずですから、法律が憲法に反するか否か?という問題は滅多に起こるものではありません。実際、戦後の法令違憲判決は議員定数配分事件を除けば10件に満ちません。

しかし、法律は国家が執行するため、法律によって憲法で認められた権利・利益が侵害されると、その威力は絶大です。したがって、法律が憲法に違反しないか?をしっかりと監視することは裁判所及び裁判制度に携わる私達法曹実務家の重要な役割、ということになります。

headlines.yahoo.co.jp

にほんブログ村 士業ブログ 弁護士へ