弁護士由井照彦のブログ

法律の視点からの社会・事件やリーガルリサーチについて

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富裕層が海外逃避?−もう1つの出国税

記事にある観光庁長官が検討している「出国税」は一般人向けに構想されているものです。この新税の是非を議論するにあたっては、従来からある「もう1つの出国税」との違いを意識することは有益です(ちなみに、出国税については何回かに分けて説明するつもりです)。

「もう1つの出国税」とは、国外転出時課税制度と呼ばれるものです。

有価証券の代表格である上場株式は、日々その価格が上下します。買ったときより市場価格が上がれば、その人は値上がり分資産が増えることになります。これは経済的価値の流入ですので、その人に「所得」が発生した、と言えます。一般用語で言う値上がり益=キャピタルゲインは所得の1つということになります。

所得が発生している以上、キャピタルゲインには所得税を課税すべきです。しかし、キャピタルゲインは所得と言っても、株式を売っていない以上、その人に現金が入るわけではないので、納税資金がありません。これを国の立場から見れば「徴税が技術的に困難」ということになります。

ここで注意しなければならないのは「現金が入らないから、そもそも税は発生しない」という発想を我が国の税法はとっていないことです。所得は発生しており、本来は納税しなければならないが、徴税技術上の問題から、課税していないに過ぎないということです。

では、どうやって課税するかというと、

所得税法33条1項「譲渡所得とは・・・による所得をいう。」
同条3項「譲渡所得の金額は、・・・総収入金額から当該所得の基因となつた資産の取得費・・・を控除・・・した金額とする。」

つまり、資産を「売った時」に、
売却金額−買った際の価格
を所得として、これに税率をかける訳です。

これは日々上下する価格をその有価証券保有者が保有している間は課税せず、売った場合にその時点での値上がり分に対して課税する、ということです。

ここで立ちはだかるのが以下の規定です、

所得税法5条1項「居住者は、この法律により、所得税を納める義務がある。」

これは、我が国の「居住者」に対してしか、我が国は課税できないのが原則であることを規定しています。

そうすると、当然、「株式等を売ったときに我が国の居住者でなければいいじゃないか!」と考える人が出てきます。当然、富裕層が中心です。

つまり、有価証券を多額(現行規定では1億円以上)持っていて、かつ、それが買ったときよりかなり値上がりしている=キャピタルゲインが発生している人が、売る前にキャピタルゲイン課税の無い国・地域(香港など)に移住して、そこで株式を売却して、納税を免れようとするのです。

海外に移住することは違法である訳がなく、日本で買った株式を海外で売っても違法ではないので、この行為は当然適法です。

しかし、課税当局から見れば、これは適法行為の選択可能性を乱用して、不当に課税を逃れている=租税回避行為そのものです。しかも、こういうことをする富裕層がかなりの数存在し、どんどん増加していっていました。これを放置すると、他の納税者との不公平が甚だしく生じてしまいます。

この事態に対処するために2015年に導入されたのが、冒頭に書いた国外転出時課税制度(もう1つの出国税)であり、代表的な規定である所得税法60条の2は、

所得税法60条の2「国外転出・・・をする居住者が、その国外転出の時において有価証券・・・を有する場合には、その者の・・・譲渡所得の金額・・・の計算については、その国外転出の時に、・・・当該有価証券等の譲渡があつたものとみなす。」

と規定して、海外出国時に有価証券を所有する者にキャピタルゲインが発生している場合には、売っていなくとも、出国時の値上がり益に課税して徴収することにしたわけです。

上に書いた通り、キャピタルゲインも所得ですから、課税すること自体は何の問題もなく、徴税技術上の問題を「みなし譲渡」という手法でクリアしたということです。
これにより移住前に生じたキャピタルゲインに課税されてしまうので、富裕層が海外移住して課税を逃れるメリットがかなり小さくなります。つまり、「税の公平性が保たれた」状態になったということです。これは、以前に書いた「課税当局と租税回避行為(をする人)との闘い」又は「イタチごっこ」の一環であったと言えます。

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法律と歴史・社会−戸籍についてあえて触れなかったこと

前回、我が国の戸籍という書類の特殊性と戸籍制度の長い長い歴史について説明し、我が国の法制度を前提にすると戸籍の公開には極めて抑制的であるべきことを指摘しました。

気づいた方も多いと思いますがその際に1つ敢えて触れなかったことがあります。もちろん、いわゆる被差別部落問題と戸籍の関わりです。

触れなかった理由は、被差別部落問題と戸籍との関係は少なくとも「法制度上の」つながりが無いからです。
しかし、法律や制度というのは我が国の歴史や社会的な実態とは不可分なものです。しかも、記事のように国会議員(それも与党議員)がこの問題について「ルーツや差別の話なんて誰もしていない」と言い切ってしまう現状を考えると、やはり説明しておくべき問題かなと思いました。

戸籍法は、

戸籍法6条「戸籍は、市町村の区域内に本籍を定める一の夫婦及びこれと氏を同じくする子ごとに、これを編製する・・・」

と規定しており、これが本籍についての基本規定です。

この条文からは①本籍とは特定の市町村の区域内であること、及び②戸籍は本籍地で核家族毎に編纂されることがわかります。

①については、本籍とはいわば戸籍の管理地を定める機能があることになります。逆に言えば、本籍地は日本国内であればどこでもよく、実際に「千代田区千代田1−1」つまり皇居に本籍を置いている人・家族は結構な数います。

一方で、②は子は通常結婚までは父母と本籍が同じであることを意味します。これにⅰ)結婚とは「家」と「家」がするものであるとの意識、ⅱ)祖先が住んでいた土地への愛着、等の様々な意識が絡まり合い、多くの人が婚姻にあたって、夫の従前の本籍地を夫婦の本籍地にする、いわゆる「入婿」の場合には、婿入りを受けた側の女性=家の本籍地を夫婦の本籍地とするという慣習又は社会的実態が存在します。

そのため、戸籍の本籍地欄を見れば、その人の祖先の土地的な出自が事実上わかってしまう、という実態があります。

そして、江戸時代以来の根強い部落差別意識の下、江戸時代の被差別部落が現在の町名・字ではどこか?という情報が我が国には昔から流通しています。ネットのない時代はそれが記載された本(公刊していない本)を売り歩く業者がいました(現在もいると思います)。現在はネット上にすらかかる情報が上がっています。

もちろん部落差別には何の理由もなく、不合理な差別であることは明白です。
他方で「部落差別には理由がないから、本籍地が知られても堂々としていればよい」というのはそれこそ非常に長い歴史のある部落差別の根強さ、現在なお被差別部落情報が流通しているという我が国の実情を甘く見ているとしかいいようがない、机上の空論です。
また、「嫌なら本籍を変えれば良い」というのは、上記のように本籍を自己の先祖が住んでいた土地の愛着から選んでいる人に「不合理な差別」を理由にその愛着を捨て去れ、と言っているようなものであり、戸籍制度を維持し、その中に本籍地の記載を求める我が国の法制度と全く整合しません。

繰り返しますが、我が国の戸籍制度は創設以来135年以上経っている、歴史の長い制度です。歴史が長いということは、制度の目的や趣旨とは本来は関係のない様々な「しがらみ」がまとわり付いているということです。
歴史が長い戸籍制度を維持するということは、このような「しがらみ」を直視するということです。
直視した上で、「戸籍の公開を要求すること」が、たとえ政治家に対してであっても、我が国の歴史や法制度と適合するのか?を慎重に検討する必要があります.

 

 

http://www.sankei.com/politi…/…/170716/plt1707160017-n1.html

戸籍は大事−蓮舫氏の二重戸籍問題から考える

16/9/15の記事で説明した通り、我が国の公職選挙法国会議員の被選挙権について

公選法10条「日本国民は・・・被選挙権を有する」

と規定し、
これは外交官になる要件を定める外務公務員法が

外務公務員法7条「・・・国籍を有しない者又は外国の国籍を有する者は、外務公務員となることができない。」

と定めるのと比較すれば明らかな通り、二重国籍者の被選挙権を許容しています。
すなわち、「仮に」蓮舫氏が国会議員になるに際し、二重国籍であったとしても法的には問題ありません。

そこで蓮舫氏を攻撃するために持ち出す論理は「政治責任」ということになります。

政治責任」とは色んな意味があり、逆に言えばしっかりとした内容を持つ言葉ではありません。
しかし、「国会議員になろうとするのであれば、自己が我が国以外に何らかのつながり・コミットメントを有している場合には、少なくともそれを表明した上で有権者の判断(選挙)を仰ぐべきだ」という主張には一定の説得力があり、少なくともあり得る見解です。

しかし、仮に上記見解を支持したとして、蓮舫氏に戸籍の公開を求めるのが妥当か?については異論があり得ます。
それは我が国の戸籍というものの特殊性への配慮です。

我が国では、

憲法13条「すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。」

との規定を根拠にいわゆる「プライバシー権」が認められています。現在声高に言われる「個人情報保護」もこの流れです。

我が国の戸籍は国民の出生から死亡までの「血の繋がり」「婚姻」「養子」などの身分関係が全て記載された書類です。
また、戸籍制度は明治5年以来135年以上続いており、人の出自に関する情報が非常に長期間に渡って蓄積されています。
更に基本的には「家」を基本として編成されているため、今回で言えば、蓮舫氏の戸籍には、蓮舫氏の配偶者と子どもについても身分関係・血筋等が記載されていることになります。

また、ある戸籍を見ることができれば、「本籍」等を頼りに先祖を遡ったり、他の親戚を辿ったりすることが出来ます。もちろん、これは弁護士等が裁判等に必要な限りでしか許されていませんが、残念ながら弁護士を買収する等して違法に戸籍を入手する事例が散見されます。

すなわち、戸籍というのはプライバシーの塊のような書面である上、本人以外についての記載があり、しかも(違法な手段を使えば)先祖・親戚を辿ることが可能となるものです。

このような特殊な書類を特定の目的のために特定の個人・機関に提出するのはともかく、「公開する」「公開を要求する」ことには非常に抑制的でなければなりません。

前述の通り、二重国籍者が国会議員になることは公選法上許容されています。これは国権の最高機関である国会がそのように判断している、ということです。
また、戸籍制度は我が国の伝統と言ってもいいほどに長期間維持・運用されている法制度です。
そうであるにもかかわらず、「政治責任」という曖昧な言葉の下、戸籍の公開を求める、ということが果たして我が国の法制度・政治制度と整合するかについては、慎重な検討が必要と思われます。

www.sankei.com

入れ墨はアート?−違法と違憲

我が国の法は、まず、頂点に「憲法」があり、その憲法によって立法権を与えられた国会が「法律」を制定する、という構造です。そして法律が憲法に反するかどうかを判断するのが裁判所です。

ここまでは、中学校等でも習うのですが、法律と憲法が具体的にどのように絡み合って問題になるはわかりにくいと思います。この点を記事にある「入れ墨はアートだ!」という事件に則して説明します。

まず、問題となっている「法律」は医師法であり、

医師法17条「医師でなければ、医業をなしてはならない。」

と定められています。
そして、

医業とは、当該行為を行うに当たり、医師の医学的判断及び技術をもってするのでなければ人体に危害を及ぼし、又は危害を及ぼすおそれのある行為(医行為)を、反復継続する意思をもって行うこと

と考えられています。

入れ墨との関係で問題になるのは「医師の医学的判断及び技術・・・でなければ人体に危害を及ぼすおそれがある」かどうかです。
記事の彫師の第1の主張は「入れ墨を彫ることは医師でなくとも危険ではない」ということです。
入れ墨を彫るのが人体に危害を及ぼすおそれが無いのであれば、「医業」にはあたらないことになります。そうすると彫師は医師法違反ではなく、無罪判決となります。この判決を出すのに憲法を持ち出す必要はないため、これは違憲判決ではあり得ません。

無罪判決が出れば彫師は満足であり、憲法の問題を持ち出す必要も場面もありません。
訴追する検察官は有罪判決であれば満足であり、やはり憲法を持ち出す必要も場面もありません。無罪判決であっても検察官としては控訴審で「入れ墨を彫ることは医業にあたる」という医師法という「法律」の解釈を主張するだけで、憲法を持ち出す必要も場面もやはりありません。

つまり、ここではあくまでも「法律」の解釈が問題となっており、憲法の出る幕ではありません。

問題は「入れ墨を彫ることは医業にあたる」という判断がなされる場合、または、そのような判断が予想される場合です。
この場合、彫った彫師は医師法に違反するので、有罪になります。つまり、被告人である彫師は別の理屈を考えなければなりません。

法律の解釈として入れ墨を彫ることが医業にあたるとされてしまう以上、彫師が無罪になるための理屈は「医師法17条は無効である」ということになります。
そして、冒頭で書いた通り法律は国会で制定されたものなので、それを無効にする理屈は「医師法17条は憲法に反する。したがって、無効である」ということになります。

それが記事で彫師の弁護人が言っている
「彫師に医師免許を要求することは、憲法で保障された表現の自由職業選択の自由、タトゥーを入れたい人の自己決定権を侵害する」
という主張になります。

この主張を表現の自由について見てみると、憲法

憲法21条1項「集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。」

と規定しており、記事でも彫師は
「入れ墨はアート=表現だから、それを彫師に医師免許を要求することで制限するのは、表現の自由の保障=憲法21条に反する」
と主張しているわけです。

この主張が仮に裁判所が正しいと考えると、その判決は「医師法17条は憲法21条に反するから無効である。したがって、被告人(彫師)は法律に反していないことになり、無罪」という内容になります。
ここでは憲法を理由に国会が定めた法律を裁判所が無効と判断しており、憲法問題が前面に出ています。つまり、違憲判決、ということになります。

このようなタイプの違憲判決を「法令違憲」と言いますが(他に「適用違憲」というタイプが有りますが、それは別の機会に。)、国会(議員)は「通常」、憲法に反しないように法律を定めているはずですから、法律が憲法に反するか否か?という問題は滅多に起こるものではありません。実際、戦後の法令違憲判決は議員定数配分事件を除けば10件に満ちません。

しかし、法律は国家が執行するため、法律によって憲法で認められた権利・利益が侵害されると、その威力は絶大です。したがって、法律が憲法に違反しないか?をしっかりと監視することは裁判所及び裁判制度に携わる私達法曹実務家の重要な役割、ということになります。

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逮捕・捜索されなければいいのか?−法務省見解の意味するところ

共謀罪について条文案が明らかとなった直後に法務省が記事にある通り「犯罪を合意しただけでは、逮捕や家宅捜索はできない」との見解を出しました。これが何を意味するかは意外と大事なのではないかと思います。
捜査機関(警察や検察)が「捜査」活動が出来る場面については刑事訴訟法(下記では「刑訴法」と略します)に定めがあり、

刑訴法198条2項「司法警察職員は、犯罪があると思料するときは、犯人及び証拠を捜査するものとする。」

とされています。つまり、「犯罪がある」と捜査機関が考えた場合に「捜査」ができることになります。逆に言えば「犯罪が起こりそう」と捜査機関は考えるが「まだ起こっていない」段階では「捜査」はできません。
そして、国家が国民の身柄を捕まえる(=逮捕)、住居等に踏み込んで証拠を探す(捜索・差押え)は「捜査」活動としてのみ刑訴法で認められています(刑訴法199条等)。
まとめれば、「犯罪」が「既に起こった」場合しか警察等は、逮捕・捜索等を行うことができないことになります。
そして、犯罪とは「構成要件に該当し」違法で有責な行為を意味します。
ここで、共謀罪の政府原案では、

「・・・共謀した者は、その共謀をした者のいずれかによりその共謀に係る犯罪の実行に必要な準備その他の行為が行われた場合において、当該各号に定める刑に処する。」

とされているようです。
上記条文からは「共謀」しただけでは処罰されず、共謀された犯罪について「犯罪の実行に必要な準備その他の行為が行われた場合」にのみ処罰されることが読み取れます。
これを「構成要件」という視点から見ると、「共謀」は単体では犯罪ではなく、共謀された犯罪(本体となる犯罪)の実行に必要な「準備その他の行為」がなされた場合に、遡って共謀も「犯罪」として成立する、と読むのが素直です。
つまり、「準備行為等」は「共謀罪」の構成要件ということになります。
したがって、「共謀」が行われても準備行為がまだされていない段階(これを法務省は「犯罪を合意しただけでは」と表現します)では、(準備行為等という)構成要件が充足されていないので、犯罪としては成立しておらず、捜査機関は「捜査」することができない。したがって、逮捕も捜索もできない、ということになります。
法務省が「見解」として述べているのはこのことです。
ちなみに、「準備その他の行為」の「その他の行為」に何を含めるかにより、共謀が「犯罪」となる範囲がかなり拡大する可能性があることをどう考えるか等、上記条文や法務省見解によって共謀罪への懸念を払拭できるか否かにはそもそも諸論あり得ます。
更に、共謀罪の条文以前の問題にも頭に入れておくべきです。
それは、警察等は「捜査」だけをする機関ではなく、犯罪の「予防」のためにも活動する機関だ、ということです(犯罪捜査活動を「司法警察活動」、犯罪の予防・鎮圧活動を「行政警察活動」と言ったりします)。
行政警察活動については、警察官職務執行法(下記では「警職法」といいます)に定めがあり、

警職法2条1項「警察官は、異常な挙動その他周囲の事情から合理的に判断して何らかの犯罪を犯し、若しくは犯そうとしていると疑うに足りる相当な理由のある者又は既に行われた犯罪について、若しくは犯罪が行われようとしていることについて知つていると認められる者を停止させて質問することができる。」

とされています。この規定に基づいて、酔っ払って街をフラフラしていて「職務質問」を受けたり、夜に自動車検問が行われていたりする訳です。
共謀とは犯罪の合意である以上、本体犯罪の準備が未着手でも、共謀さえなされれば警職法2条にいう「犯罪を・・・犯そうとしている」と言えますので、警察官が共謀した者に対し、職務質問は当然にできることになります。
更に、あくまで「任意」であれば警察等は共謀をした者を警職法2条に基づき、警察署等に呼んで話を聞くこともできます。いわゆる「任意同行」です。
「任意」なのですから、断ることも出来ますが、我が国では「警察から呼ばれて行かないのはやましいことがあるからだ」という意識が強く、任意同行を断ると社会的非難すらあり得ますので、現実には「任意同行だから、市民の自由を制限しない」とは言いにくい面があります。
また、いわゆる通信傍受法は、

通信傍受法3条「検察官又は司法警察員は・・・犯罪・・・の実行、準備・・・相互連絡その他当該犯罪の実行に関連する事項を内容とする通信・・・が行われると疑うに足りる状況があり・・・」

と定めています。
共謀が行われれば、さらなる謀議のため電話等が行われると「疑うに足りる状況」が発生する場合もかなり多いと考えられます。したがって、やはり本体犯罪の準備が未着手でも、共謀があれば通信傍受が許容される場合も多いことになります。
つまり、警察等は、共謀(=犯罪の合意)だけで逮捕・捜索はできなくても、共謀罪を「取っ掛かり」に任意同行や通信傍受等様々な手段を用いることが可能ということになります。
法務省が「合意だけでは逮捕・捜索はできない」というのは、当たり前といえば当たり前の話です。そんな当たり前のことをわざわざ「法務省見解」として出さざるを得ないあたりに、政府の本音が垣間見えている気もします。
また、逮捕・捜索が出来ないからと言って、捜査機関が何もできないわけでなく、市民生活に影響が出ないわけでもありません。
共謀罪の是非についての議論は、上記のような他の法律の仕組みも前提にしながら、実際の運用イメージを描き、市民生活への影響を考え、テロ防止等にどの程度役立つのかを具体的に考えるものでなければならないと考えられます。
 
 

賄賂は申込んだだけで処罰される

鴻池元防災相が「無礼者!」と言って投げ返したのは、事実とすれば中々のパフォーマンスですが、それはともかく、この問題についての森友学園理事長の言い訳は、法的にはかなり興味深いものです。

政治資金規正法の枠外で政治家にお金を渡す場合に問題となるのは賄賂罪です。渡す方は贈賄罪、もらう方は収賄罪に問われます。
今回学園理事長は渡す方なので、贈賄罪が問題となります。
贈賄罪とは、

刑法第198条「第197条から第197条の4までに規定する賄賂を供与し、又はその申込み若しくは約束をした者は、三年以下の懲役又は二百五十万円以下の罰金に処する。」

と定められています。

収賄罪は種類が多いため、「197条から・・・」となっていますが、そこは度外視すると、まず問題になるのは「賄賂」とは何か?と言うことです。

賄賂とは、公務員の職務行為に対する対価としての不正な「報酬」をいいます。
判例は「報酬」について具体化して

「賄賂とは財物のみに限らず、又有形たると無形たるとを問わず、苟も人の需要もしくは欲望を充たすに足りるべき一切の利益を包含する」

としています。

「賄賂」というと現金や株式をイメージする人が多いのですが、上記の判例からは金融の利益はもちろん、芸者の花代等饗応接待、就職のあっせん約束、更には異性間の情交も「賄賂」にあたることになります。

当然、商品券は賄賂にあたります。
したがって、学園理事長の「事実無根、金銭ではなく商品券だ」という言い訳は、贈賄罪を否定することにはなりません。

次に、ここが一番誤解されがちですが、今回理事長は商品券入りの包を鴻池氏に渡したが「投げ返され」ています。すなわち、鴻池氏は賄賂を受け取らず、他方、理事長は賄賂を渡すことが出来ませんでした。

しかし、上記の刑法198条の条文文言には「賄賂の申し込み」と書いてあります。つまり、「受け取って下さい」と言ったり、包を「渡そうとした」だけで贈賄罪は成立します。
したがって、理事長の言い訳は贈賄罪の成立を否定することにはなりません。

もちろん、商品券より金銭を渡す方が悪質だ、申込みだけで断られたのなら、それほど非難すべきでない、として量刑を軽くする事情にはなるかもしれません。
しかし、贈賄罪自体は成立する以上、検察等が理事長を捜査すること自体には支障が無いと言えます。

そうすると理事長にとって検察等の捜査を避けるための主張としては、鴻池氏への商品券供与申し込みは「親族がお世話になったことへのお礼」であり、「公務員の職務行為に対する不正な報酬」の申し込みではなかった、ということしか残らないことになります。
したがって、今後はその点の主張を盛んに発信してくる可能性が高いと思われます。

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養子制度は誰のため?−「法律の趣旨」の割り切れなさ

法律の趣旨が法律の条文文言や条文構造により導かれることは、16/10/4の記事で少し書きました。

記事にある節税目的の養子利用は、その「法律の趣旨」がそう割り切れる問題ではないこと、そしてその割り切れなさの隙間に思いがけない目的が割り込んでくることがあることを、かなりえげつない形で表しています。

 

養子制度の目的については、戦前の旧民法と比較しながら考えるとわかりやすく、通説は大体次のように説明しています。

 

まず、戦前の民法は男子が家督を相続するという、家督制度を定め、推定家督相続人(普通は長男)である男子がいる戸主(一族の長)は男養子をとれないと規定していました(旧民法839条)。
つまり、家督を継ぐべき人がいる場合には、男養子ができないのですから、養子制度は家(の家督)が絶える危険を避けるために必要とされる制度、ということになります。
つまり「家」のために養子は認められるわけです。

 

他方で戦前の民法は、戸主でなければ(戸主になる前の推定家督相続人を含みます)、何人男養子をとってもよいとされ、また、婿養子(娘の配偶者)なら、何人でも男養子をとれると定めていました(旧民法839条但書)。
これは「家のための養子」の観点からは説明できず、子を育てたいという親の希望・家族共同体の労働力の増加・老後の親の面倒を見るためという「親のための養子」と、親のない子に親を与え、健全な育成を図るという「子のための養子」の両側面があると言われていました。

 

戦後、現行民法が定められ、家督制度が廃止され、男養子の制限も削除され、更に婿養子という概念も無くなったので、「家のための養子」と考えれれる条文は姿を消しました。

一方で、養親となるには成人であればよく(民法792条)、しかも養子より少しでも年長であればよいとされています(民法793条)。
「子のための養子」が趣旨であれば、親となるにふさわしい年齢や、親子と言えるにふさわしい年齢差を定めるはずです。
そのような規定がないのですから、現行民法での養子制度の趣旨は「子のための養子」と「親のための養子」のどちらか割り切れないものとなっています。

 

その割り切れなさの隙間に割り込んできたのが「節税目的」という目的です。
民法には税金への配慮と考えられる規定はありません。
他方、相続税法相続税基礎控除相続税を支払わなくて良い財産の額)について、3000万円+600万円×相続人の数と定めており(相続税法15条)、また、生命保険等の非課税枠も相続人の数に比例させています(相続税法12条1項5号)。
要するに、相続人が多い方が税金をより少なくできる訳です。これが節税目的の養子が蔓延る原因です。

 

節税目的は相続の場面ですから親は死んでおり「親のための養子」とは言いにくく、また、親のない子に親を与えることとも関係が薄く「子のための養子」とも言いにくい目的です。

しかし、相続税法はむしろ節税目的の養子を前提としており、上記の優遇が認められる養子の数を、実子がいる場合には1人、実子がいない場合には2人に制限する規定を置いています(同法15条等)。

 

そして、節税目的の養子は社会においてかなり広く行われています。
このような現実を前提に記事の最高裁判決の原審である東京高裁判決は「節税目的の養子には『養子縁組をする意思がない』」と判断しました。現実を見ない非常識な判決とも思えますが、養子の目的を「親のための養子」「子のための養子」とすると、理解できる判決です。

 

しかし、最高裁は記事にある通り、正面から節税目的の養子を認めました。
「法律の趣旨」の割り切れなさ、隙間に入ってくる他の趣旨等、考えさせられる判決です。

headlines.yahoo.co.jp

 
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